「明治8年ゆかた山絵馬」/櫛田神社所蔵
山笠小史をつづけて5回5か月目。2年連続で山笠が中止となった今だからこその長期企画だ。けれど、11年間も禁止された明治の山笠史は、テキスト『史談 ※1』を読むだけでつらい。
ここで朗報~! 明治8年、県庁がとつぜん山笠の許可をだした。博多はオオタニサンがHRを打ったような喜びに沸いて…とはならず、大慌てとなったのだった。許可が下りたのは旧6/13午後5時。いやみとしか思えない。それでも許可が下りたからにはやるっきゃない。
◉明治8年(1875)
・一番東町流(ひがしまちながれ)「山笠再興誉」浜口町中(はまぐちまちなか)
旧6/14夜に山を立てたが、飾りは間にあわない。人形も各山に1体だけ。人形衣装がまにあわず、ゆかたを着せた。四番山呉服町流(ごふくまちながれ)当番の市小路町中(いちしょうじまちなか)は意地を見せて人形2体を飾り、山笠絵馬を奉納した。
「(旧)15日朝山<ママ>櫛田入りの頃、にわかに万行寺(まんぎょうじ)出火残らず焼ける。櫛田入りは午前11時頃あり」(山笠年代記 ※2)。能は「始まり遅く暑中彼是(かれこれ)にて相止(あいや)む」(山笠記 ※3)。
ね、前回紹介した明治6年の能狂言、二日間19演目の件、朝と夜にわけて上演したのかなあ。昼は能衣裳が汗で大変。
◉明治9年(1876)
・一番 土居町流(どいまちながれ) 浜小路町(はましょうじまち)
山笠再び禁止。御祭祀と能は旧暦で催行。
町名の変更 ※4 があった。
10月24日熊本で神風連(しんぷうれん)の乱。※5 27日秋月の乱。28日萩の乱。
電話線架設開始!
◉明治10年(1877)
・一番 洲崎流(すさきながれ) 妙楽寺新町(みょうらくじしんまち)
御祭祀は旧暦にて。能奉納はなし。
電信架設(大名町―水車橋―瓦町―祇園町―辻堂口間)。
2月西南戦争はじまり、征討総督有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が政府軍を率いて博多上陸、勝立寺(しょうりゅうじ)が仮本営となった。9月鎮圧。3月には福岡の乱 ※6 が起きている。
◉明治11年(1878)
・一番 東町流 御供所町(ごくしょまち)
山笠なし。御祭礼は旧暦にて。
博多松囃子の三福神が再興(稚児舞(ちごまい)はなし)。従来旧1/1のところ、紀元節2月11日(旧1/10)に開催。禁止後6年ぶり。
あと1回山笠をやらせて~。
※1 史談…博多祇園山笠史談/落石栄吉著。S36刊。
※2 山笠年代記…博多山笠年代記/博多山笠記録S50刊所収。
※3 山笠記…江戸期最後の年行司山崎藤四郎著M26刊/前掲書所収。
※4 町名の変更…町名の様式が変わった。上中下が町名の上についた(例/竪町上➡上竪町)。□小路町➡□小路(例/古小路町➡古小路)。□□番➡□□町(例/竹若番➡竹若町)。M7通達、M9より実施。
※5 神風連の乱…じんぷうれんとも。新政府の開明政策に不満を募らせていた熊本の不平士族が廃刀令(帯刀禁止令)を契機として起こした反乱。10/24―25。これに触発されて福岡の秋月士族が秋月の乱を起こした。27―11/3。つづいて山口萩士族が決起反乱。期待した薩摩は動かず鎮圧された。28―11/5。
※6 福岡の乱…西南戦争に呼応した福岡藩士族が3/27、100数十名で決起(500名弱とも)。午後にはほぼ決着。逃れたものも筑後乙隈で敗戦。西郷軍に合流したものもいた。(博多郷土史辞典・wiki他)
長谷川法世=文
text:Hohsei Hasegawa