博多弁の「はらかく」は、腹が立つ・怒るのこと。だけど、『平家物語』では意味がまるで違う。
木曽義仲追討の源義経軍の一員として鎌倉を出発した梶原源太景季(かじわらげんたかげすえ)は、源頼朝に賜った名馬磨墨(するすみ)※1 に乗って意気軒高。ほんとうはもう1頭の名馬生食(いけづき)※2 がほしかったのだが、頼朝は磨墨しかくれなかった。ところが、佐々木高綱が生食に乗ってきた。梶原は怒りを抑えて問いただす。
佐々木殿はどうやって生食を賜ったのだ? 佐々木は梶原が生食を欲しがっていたのを知っていたから、とっさに嘘をつく。あなたがいただけないものを、私などが賜われるはずがない。厩の番人を抱き込んで盗み出したのですよ。すると「梶原この詞(ことば)に腹がゐて」、なんとねたましい、私も盗めばよかった、と大笑いしたのだった。
このあと有名な宇治川の先陣争い ※3 になるのだが、注目すべきは「梶原この詞に腹がゐて」だ。いまの博多弁で解釈すれば、「梶原は腹をたてて」となる。腹を立てては大笑いとならない。脚注は「腹の虫がおさまって」だ。頼朝のえこひいきではないと思って納得した梶原の大笑いで一件落着したのだ。
13世紀前半成立の平家物語では、「腹かく」は、腹の虫がおさまるという意味だった。現在では逆に、腹の虫がおさまらない、だ。
「はらかく」をネット検索すると、近松門左衛門の浄瑠璃『源義経将棊経(みなもとのよしつねしょうぎきょう)』に「其痩馬共引上(そのやせうまどもひきあげ)よ、蹴殺(けころ)されてはらかくな」という例文が示され、はらかくなは「後悔するな・悔しがるな」という説明。この作品は1711年ごろ成立というから、13世紀前半成立の平家物語からざっと500年のあいだに意味が変化したわけだ。「悔しがる」と現在の「腹が立つ」は近い関係にあるけれど、いまは悔しがるの意味はほとんど消えている。
時代により言葉の意味が変わることを、言語学では「意味変化」というそうだ。「敷居が高い」とは本来、「不義理や面目の立たないことでその人の家に行きにくい」であるのが、いまは「クラシック音楽は上品なので敷居が高い」などに変化しているという。
「やばい」を筆者は「危ない」の意味にしか使わないけれど、若い人たちは「すてき!」などの意味で使うらしい。「締め切りに間に合わん、やばっ!」では、若い人に首を傾げられるのかな。
※1 磨墨…「極めて太う逞しきが、誠に黒かりければ、磨墨とはつけられたり」。梶原景季は生食を所望したのだが、頼朝は自分が乗るべき馬だといって、かわりに磨墨を与えた。
※2 生食…「極めて太う逞しきが、馬をも人をも傍〈あたり〉を拂って食ひければ、生食とはつけられたり。八寸〈やき〉の馬とぞ聞こえし」。八寸とは前足の肩までを計る体高が四尺八寸(147.6㎝)であること。当時の日本馬の標準は4尺(121㎝)。梶原より後にあいさつに来た佐々木高綱に、頼朝は何を思ったか自分から生食を与えた。
※3 宇治川の先陣争い…寿永3年(1184)1月、木曽義仲の軍が待ち構える宇治川に源義経軍が着陣。いざ合戦のとき、梶原景季と佐々木高綱が馬にまたがって宇治川を渡り先陣争いをした。佐々木は梶原の乗る磨墨の腹帯がゆるんでいると嘘をつき、梶原が馬から下りて点検するのを尻目に一番乗りを果たした。
長谷川法世=文
text:Hohsei Hasegawa
長谷川法世さんの歴史エッセイ「はかた宣言」は2022年3月号・通算127回で終了いたします。2004年5月号から18年間、ご愛読ありがとうございました。