・電柱を高くし、往時より5尺(1.5m)低い山までもどした。
・上洲崎町の「山笠を仕立て」が標題の『賀茂競馬』どおりなら騎馬二騎*が必要だ。
本式のつくりだったなら県の禁止を破ったことになるが、叱責の記録はみえない。
さて、江戸から明治にかけての山笠通史もこのあたりで完結としよう。
◉明治12年(1879)
・一番 呉服町流(ごふくまちながれ) 下小山町(しもおやままち)※1
山笠なし。祭礼はコレラ発生のため旧9/2催行。能も催行。
前年の松囃子三福神の復活につづき、稚児舞が復活した。あとは山笠だ!
11月誓文払(せいもんばら)い ※2 のはじまり。
◉明治13年(1880)
・一番 魚町(うおのまち)流 古小路(こしょうじ)
祭礼は旧暦にて。能はあり。
◉明治14年(1881)
・一番 石堂(いしどう)流 中間町(なかままち)
山笠なし。ところが「年代記 ※3」に驚きの記録がある。
「もっとも台ばかりにて舁き用い候、順番順道なしに舁き申し候、上洲崎町(かみすさきまち)は『賀茂競馬祭』の題にて山笠を仕立て舁き申し候、能は有り、三番行町(ぎょうのちょう)、神祭と書きたる額を立て舁き申し候」
「台ばかりにて」舁いたのは、今の試(ため)し舁(がき)※4 とおなじか。もうとても許可を待ちきれないというところだろう。『史談 ※5』では、六番山上洲崎町の飾り物は表(おもて)―御輿・公家馬。見送(みおく)り―御輿・公家馬となっている。これでは県の禁止令に触れるのではと思えるが、叱責の記録はみえない。
◉明治15年(1882)
・一番 西町流 竹若町(たけわかまち)
祭礼は旧暦にて。能もあった。「山笠記 ※6」に「数町神祭と書きたる額を立て、又は台に幣を立て、或いは榊を立て注連を張り舁き申し候、蔵本町(くらもとまち)・須賀神祭{明治十五年六月:第壱番山笠}※7 蔵本町と書きたる額を立て舁き申し候…下市小路(しもいちしょうじ)旧四番{明治十五歳:山笠当番}下市小路と書きたる札を立て舁き申し候」とある。
◉明治16年(1883)
・一番土居町(どいまち)流「勇義貫石誉」中土居町(なかどいまち)
明治6年以来11年ぶりに許可を得て山笠が再興。標題がついた! が、明治10年からの電信線架設 ※8 のため以前より低くしなければならなかった。めでたさも中位なりおらが山、といったところ。奉納は旧6/10~15。旧6/12追山習(おいやまならし)試 ※9 のはじめ。
このあと、山笠廃止論や市電開通など、伝統存続の歴史は波乱万丈。荒波を乗りこえ乗りこえ、今も山笠は走る。
※1 下小山町…上中下を町名の前につけるなどの明治9年の町名変更が、山笠にも反映された。(小山町下→下小山町)。
※2 誓文払い…明治12年川端町の漬物商金山堂八尋利兵衛の呼びかけではじまった年に一度のバーゲンセール。最初は呉服商のみだったが後に全業種に広まり、いまにつづく。
※3 年代記…「博多山笠年代記」『博多山笠記録』所収。
※4 今の試し舁…当番町が山台に舁き棒を取り付ける「棒締め」を完了して山台だけで町内を書き廻る行事。
※5 史談…落石栄吉『博多祇園山笠史談』。本稿テキスト。
※6 山笠記…江戸時代最後の年行司山崎藤四郎が明治26年著したもの。『博多山笠記録』所収。
※7 {:}…原文中2行に小さく注を入れた「割書き」を示す。:は行替え箇所。
※8 電信線架設…29年には電灯線、30年には電話線が引かれた。明治25年には寄付を募って「電信柱いよいよ本年より高くなり山笠もしたがって高くなる。古の山笠より低きこと僅かに5尺〈約1.5m〉なりと」(年代記)。しかし明治43年市電の開通により、地上5mの架空線のため、決定的に低い山となった。
※9 追山習試…11年ぶりの山ということで手順の確認も必要だったろう。いまも7月12日「追い山ならし」として実施。
長谷川法世=文
text:Hohsei Hasegawa