「ヤ…時計はドンタクぢや」
懐中時計が止まっているのに気づいた学生のセリフ。坪内逍遥の小説『当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)※1』だ。ドンタクのほか、もひとつ目についたことばがある。「腕力 ※2」だ。
「ダーウィンがいっとる通り、優勝劣敗の世の中ぢやから、…いわゆるマイト・イズ・ライト(マイト・イズ・ライトとは腕力は権利也といふ意)ぢや。万国公法(ばんこくこうほう ※3)があらうが何があらうが、まだまだ道理ばかりでは勝つことができんワイ。国と国との事は元来(もとより)論ずるまでもないが、一個人のばあいぢやからッて、矢張(やっぱり)腕力が勝を得るぞ…」
20年後の夏目漱石『坊っちゃん ※4』にも「腕力」がでる。
「(赤シャツは)実にひどい奴だ。到底智慧(ちえ)比べで勝てる奴ではない。腕力でなくっちゃ駄目だ。なるほど世界に戦争は絶えない訳だ。個人でもとどの詰りは腕力だ」
「腕力」は福岡藩出身金子堅太郎 ※5 の評伝にもでる。金子は川上音二郎と貞奴の媒酌人とされ縁が深い。実は腕力に気づいたのは金子の評伝 ※6 が最初だった。
金子は明治25年(1892)スイスで開催される国際公法会 ※7 出席のため、東回りに渡米した。7年間留学したアメリカで情報を得るためだった。ボストンではハーバード大ロースクールの旧師ホームズ ※8 を訪ねた。そこで金子は、国際公法会での不平等条約改正を目的とした演説内容を説明した。ホームズは声を低めていった。
「そもそも国際関係というものは…『全ク古来蛮族ノ余習トシテ弱肉強食ノ主義ニ依ルモノ』である。だから欧米列強がアジア諸国で占有した特権は、法理と人道を説く講演ぐらいで撤廃させることは不可能なのだ。「列強を恐怖させるほどの『腕力』を有するのでなければ、法理や人道の如きは単に宗教上の信念に過ぎない」と。金子は「膝ヲ進メ声ヲ低メテ」答えた。その「列強を恐怖せしむるに足る『腕力』を持つことについては…その実力があるという事実を」日本は世界に示すだろう。すなわち「将来ニ於ケル日清両国ノ戦争、是レナリ」と。ホームズは驚愕した。その2年後日清戦争は勃発した。
なお、日清戦争緒戦におきた高陞号(こうしょうごう)事件 ※9 について、英人国際法学者がタイムズ紙に寄稿した記事には「暴力」という訳語がある。
※1 当世書生気質…作者名は春の家おぼろ。M18(1885)~19刊。引用は岩波文庫。
※2 腕力…Might is rightは「勝てば官軍」とも。和英ではforce/violenceとも。forceは軍隊の意も。またスターウォーズでヨーダの教え。
※3 万国公法…国際公法とも。国際法の旧称。福沢諭吉『通俗国権論』(M11)「和親条約と云ひ万国公法と云ひ、甚だ美なるが如くなれども、唯外面の儀式名目のみにして」とあり、本稿3点の腕力論にさきがけている。
〈国際法に則り『自由と安全なインド太平洋作戦』で米駆逐艦バリーが台湾海峡を通過〉21年9月19日のニュースより。
※4 坊っちゃん…日露戦争終結の翌年M39(1906)発表。引用は青空文庫。
※5 金子堅太郎…元福岡藩士。ハーバード大で法律を修める。明治憲法起草に参加。日露戦争中、渡米して戦時外交・講和締結に貢献。伯爵。(1853—1942)
※6 評伝…松村正義『金子堅太郎―槍を立てて登城する人物になる』ミネルバ書房/H26
※7 国際公法会…1874年(M7)第1回総会。欧米の公法学士が組織、不完全だった国際公法の研究・改良を企図。
※8 ホームズ…オリバー・W・ホームズ。金子との会見時はマサチューセッツ州大審院判事。
※9 高陞号事件…日清戦争緒戦の豊島(ほうとう)沖海戦で、清国軍隊をのせ英国旗を掲揚した輸送船高陞号を二等巡洋艦浪速(艦長東郷平八郎大佐)が撃沈した事件。英国世論が日本に対し激昂したが、英人国際法学者により適法とされ鎮静。以下タイムズの記事の一部。「戦争というものはあらかじめ宣言せず始めても、少しも違法ではない…日本の(浪速)艦長が、いかなる暴力を用いようとも、それは艦長の職権である…国際法に背馳していない」Wiki「豊島沖海戦」より。宣戦布告などに関する国際法は第1次大戦後国際連盟によって改定された。