山高きが故に貴(たっと)からず ※1 とはいうものの、数百年ものあいだ博多男の肩になじんだ地上53尺=約17mの山笠が、文明開化の電線に負けるんて!
明治5年11月、松囃子・山笠は県の通達によって廃止された。そうして山笠再興の許可 ※2 がでたのは、なんと11年後の明治16年(1883)。そのときにはすでに電信線が明治10年に架設されており、山は低くせざるを得なかった。明治29年の電灯線、30年の電話線、そして43年市内電車の開通、地上5mの架空線により決定的な低さとなってしまう。その経過を調べるのも本稿のテーマだ。テキストはいつもどおり落石(おちいし)本 ※3。明治5年末に新暦採用、ここからは太陽暦の日付になる。
◉明治6年(1873)
・一番山西町上(にしまちかみ)(二番以下略)
新暦6月15日(旧5/21・22)御祭礼行う。山笠が無いので標題もないが当番町だけは順送りした。輪番制の能奉納があるためか。
・能当番 鰮町下
番組/翁(おきな)・竹生嶋(ちくぶじま)・田村(たむら)・紅葉狩(もみじがり)・藤永(とうえい)・熊坂(くまさか)。狂言/鼻取角力(はなとりずもう)・瓜盗人(うりぬすびと)・棒博(棒縛(ぼうしばり)の誤)・宗論(しゅうろん)
二日目/敦盛(あつもり)・夜討曽我(ようちそが)・葵上(あおいのうえ)・船弁慶(ふなべんけい)・祝言嵐山(しゅうげんあらしやま)。(狂言)二人袴(ふたりばかま)・千鳥(ちどり)・居抗(居杭(いぐい)の誤)、他一番。
能番組の多彩な二日連続奉納は、山笠をできないならせめて能を豪華にという博多の心意気だ。
6月16日筑前竹槍騒動起こる。嘉麻・穂波二郡の一揆に他が加わり30万人となった。20日福博に雪崩込み大店を襲い、県庁に乱入して放火した。
◉明治7年(1873)
・一番山 仲間町 保長(ほちょう)※4 下沢善平
右は7年4月に県令立木兼善宛、山笠再興願い提出の連署、一番山の分。
・県の指令 ※5(読みくだし法世)
書面山笠再興願いの趣き、縷々(るる)陳述これありといえどもその流弊奢侈に移り畢竟(ひっきょう)人民の不利を醸出(じょうしゅつ)候ところより壬申(じんしん)※6 年間廃止申しつけ候条、尚また再興難能詮議候事。
明治7年4月29日 福岡県
一番山仲間町と二番山鏡町は、実現しなかった山笠の図を書き櫛田社絵馬堂に奉納した。各標題は「猛将砕乎石勇 ※7」「梅家浦」。
能は1日のみ。番組は能6、狂言2。
2月佐賀の乱。博多湾に大久保利通率いる鎮圧軍が上陸した。 以下次号。
※1 山高きが故に貴からず…――樹有るを以て貴しとなす。『実語教』にある言葉。
※2 山笠再興の許可…明治8年に許可され、9年から再度禁止された。
※3 落石本…『博多祇園山笠史談』博多山笠振興会。非常な労作だが誤記があるので注意が必要。前々回の「侍従様」は記述通り書いたが、読者の指摘で間違いとわかった。その前の回も大御前様が大御所様という誤記だった。しかし博多の大先輩の名著であり、敬意を表してテキストにしている。
※4 保長…テキストでは係長となっているが、山崎藤四郎『石城遺文』下巻60頁に、明治5年から8年の大区小区制の仕組みを詳述している。博多の21小区ごとに副戸長1名。各町には年寄を「保長」、組頭取を伍長としたという。保のくずし字を係と誤読か。
また「流」という県令に耳慣れない語を使わず、年寄も保長という新名称に変えて、涙ぐましい妥協をしていることにも注目。
※5 県の指令…「山笠記録」所収。
※6 壬申…明治5年(1872)。
※7 猛将砕乎石勇…「山笠年代記」では猛将擘石勇とある。
長谷川法世=絵・文
illustration/text:Hohsei Hasegawa