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長谷川法世のはかた宣言45・船を探す

長谷川法世のはかた宣言45・船を探す


 船を探している。明治7年2月19日の船だ。この日、大久保利通さんが佐賀の乱※1征討軍を率いてやって来た、博多湾に船で。その船を知りたい。

大久保さんが乗って来たのはとうぜん軍艦だと思っていたら、アメリカ船をチャーターしたと書いた本があった。政府軍がアメリカ船で? おどろいて県立図書館へでかけ、相談コーナーで尋ねた。

佐賀の乱は明治最初の大規模な士族反乱だ。戦闘経緯のくわしい資料はもちろん山ほどある。けれど「政府軍博多上陸のようす」についての専門書はない。で、司書さんは関係書籍をたくさん見つけてくれた、山ほどの16冊※2。滞在5時間でくわしくメモできたのは「西南記伝※3」くらいだった。以下はそのメモから。

兵刑の全権※4を握った大久保さんは鎮台兵指揮官の野津少将ほかとニューヨーク号に乗船、東京鎮台第三砲隊148人は猶龍号に乗船して東京を出帆した。ニューヨーク号には大阪から第四大隊579名が同乗。第十大隊631名は北海号に乗り、ニューヨーク・猶龍・北海の3艘は安治川の河口を出発した。

そして「19日、内務卿大久保利通、野津、山田両将ニューヨーク号に搭して博多に入り、本陣を中島(町)に置き…猶竜(ママ)、北海の二船、尋ねて入港し諸軍前後また博多に陣せり」とあり、大久保さんはニューヨーク号で博多入りしたことになっている。「佐賀征討戦記」でも、「新約克(にゅうよるく)艦※5博多港に入った」と書いてある。

ところが「近世日本国民史」が引用する「大久保利通日記※6」では、大久保さんは横浜から北海丸で出帆したと書いているし、17日には、全く別のコスタリカという船が出てくるのだ。以下、大久保日記から。

14日(横浜で)四字※7…北海丸に乗船、五字出帆

16日神戸入港。小蒸気にて大坂へ

17日是より乗組コスタリカ。類船二艘12字出帆。神戸に泊船

18日朝7字頃出帆。

日記ではこのあと、大久保さんは途中で下関に立ち寄り、ついで博多に入港したことになっている。大久保さんはいったいどの船で博多に着いたのか?

明治7年、政府が威信をかけて臨んだ最初の内戦で、大久保政府軍が上陸したのが博多だった。当時10歳の川上音二郎も、小学校の同級生たちと砂浜へ飛びだして、政府軍揚陸の光景を見たはずだ。それは、のちに民権運動家となった音さんが、はじめて明治政府の力そのものと対峙した瞬間だった。

そのときの船がわからないでは、音さんが受けただろう強烈な印象に迫ることはできないというものだ。

*1)佐賀の乱…江藤新平の乱・佐賀戦争とも。1874(明治7)年2月佐賀でおきた明治初めての士族反乱。征韓論が原因の明治6年の政変で下野した前参議江藤と、佐賀で憂国党党首となっていた島義勇の二人が旗頭とされる。

*2)16冊…国史大辞典6吉川弘文館/佐賀征討戦記―佐賀征討始末陸軍参謀局編/新編西南戦史陸上自衛隊北熊本修親会/西南記伝上ニ黒竜会編/電報に見る佐賀の乱田中信義/近世日本国民史89 徳富猪一郎/佐賀市史昭和20年版/佐賀市史第3巻昭和53年版/福岡県警察史明治大正編/江藤新平伝園田日吉/日本政治裁判史録編集代表林清靖/佐賀県史下巻/明敏にして毒気あり小堺昭三/江藤南白―下的野半介/鹿児島県史料―大久保利通史料―/戦乱日本の歴史滝口康彦他

*3)西南記伝…原資料は陸軍参謀局編「佐賀征討戦記」のようだ

*4)兵刑の全権…兵力の動員から死刑執行までの臨機処分権(その場で処分出来る権限)を太政大臣三した。28日戦闘終結、3月14日親王佐賀入り。条実美が大久保に委任。23日嘉彰親王が佐賀県暴徒征討総督(天皇の名代)となり大久保の諸権限は消滅

*5)艦…この頃軍艦には船名の末尾に艦をつけてよんだらしい。

*6)大久保利通日記…国会図書館デジタルコレクションで確認。

*7)字…「字」は「時」のこと。原文ママ。

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