日本も世界も思いがけないコロナ禍だが、明治の博多にはそれ以上ともいえる大問題が発生していた。県の通達で、松囃子も山笠も全廃止となったのだ。
この突発事態を江戸時代の山笠同様、さらりと年表風にまとめるには心が高ぶりすぎだけど、心頭滅却してキーボードに向かおう。基本テキストは今回も、落石栄吉著『博多祇園山笠史談』。「 」内は山笠表題。町は当番町、二番以下は割愛。また年月日は明治5年まで和暦、6年から洋暦。
では、博多山笠明治激動編だ。
◉明治元年 ※1(1868)
・一番東町流(ひがしまちながれ)「筥崎宮霊験」東町下(ひがしまちしも)
前年10月大政奉還・12月王政復古の大号令、明けて1月3日鳥羽伏見の戦い・3月五か条の御誓文発布・神仏混淆禁止(しんぶつこんこう)(廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動の始まり)・4月江戸無血開城・5月上野の彰義隊討伐…。
この大騒動の時節にも、博多では山笠を催行。正月の松囃子は、さすがにというべきか中止、当番町は翌2年に持ち越し。
◉明治3年(1870)
一番洲崎流「橋弁慶」掛町(かけまち)
福岡藩元家老などが画策した贋札(がんさつ)事件発覚。7月2日弾正台(だんじょうだい)(検察庁)が捜査、福岡城内で太政官金札(だじょうかんきんさつ)・一分銀の偽物を押収、関係者を一斉検挙。博多にも拠点があり印判師や絵師なども捕縛された。
◉明治4年(1871)
・一番魚町(うおのまち)流「鉄鏃鎮颶術」魚町中
7月2日、前年の贋札事件の処分 ※2 が決まった。黒田長知(ながとも)藩知事(嘉永6年山笠御上覧の侍従様)は罷免、東京麻布の黒田藩中屋敷で閉門40日、以下は大参事はじめ5人の斬罪など。7月10日新藩知事として有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が赴任、14日の廃藩置県を受け、15日初代福岡県知事となった。
郵便創設・断髪令・廃刀令発布。
◉明治5年(1872)
・一番呉服町流「晋国覇業之基」小山町上(おやままちかみ)
昔の山笠の高さは地上およそ52尺~3尺、つまり約16mあった。そして明治5年の山が、昔の高い山の最後となった。11月、山笠・松囃子が禁止 ※3 され、明治16年にようやく復活許可されたときには、架設された電線のために低くせざるを得なかった。高い山の維持のため、祭り期間に電線をはずしたり、電柱を高くしたりの奮闘は次号。
※1 明治元年…慶応4年を 9月8日に改元。
※2 贋札事件の処分…翌4年7月2日に処分が決まった。藩知事黒田長知免職、元大参事(幕藩時代の家老職)立花増実以下5名斬罪など。これで福岡藩は全国一斉の廃藩置県に先行して廃藩となった。(贋札事件に関しては「維新雑誌」より『新修福岡市史/資料編近現代1』所収)
※3 山笠・松囃子が禁止…以下県からの布達/従来、神仏の祭祀そのほか例日〈常の決まりの日〉など謂われ無き戯技を営み空金銭を費やし候様の悪弊も少なからず、右は破産衰家の基のみならず、大いに敬神の首意〈ママ〉にも戻り〈悖り〉、かつ風俗の損害とも相成りて、今、文開の際、別して不都合のことに候。これにより来る癸酉の歳〈明治6年〉より正月松囃子、6月山笠をはじめ、その他作り物の類大小に拘わらず一切禁止。盆踊りの儀も、14日15日両日のほか相成らず候条、右心得違いこれ無きよう致す可し。尤も天長節等有限祝日は身分相応に祝賀致すべく候事。
壬申十一月 塩谷 参事
北野権参事
団 尚静
(「山笠記録」より法世読み下し。〈 〉内法世補/『博多山笠記録』博多祇園山笠振興会昭和50年刊所収)
■訂正
前号の嘉永6年の記事で「侍従様長溥君」の部分、侍従様は「慶贊(よしすけ。のち長知)君」の誤りでしたので訂正します。読者の方にご指摘いただきました。ありがとうございました。
長谷川法世=絵・文
illustration/text:Hohsei Hasegawa