前回につづき、江戸時代の山笠の後半。「 」内は山笠標題。町は当番町。二番山以下割愛。(ほぼ『博多祇園山笠史談』より)
●天明7年(1787)
・一番西町流「宇治川歩行渡」店屋町上(てんやまちかみ)
櫛田入りのもめごとが多かったので、この年より一番山が櫛田入りの後、東長寺を出るとき笹竹を振るのを合図として、二番山の櫛田入りと定めた。三番以降も同じ。
●享和元年(1801)
・一番東町流「征韓英武勲」浜口町下
この年二番山当番鰮町下(いわしまちしも)が山笠のうわ屋(現山小屋)をつくった。雨を防いでことのほかよろし、と。
●嘉永元年(1848)
・一番魚町流「姉川力戦誉」魚町上
櫛田入りの旋回点の目印がなかったので、東町下の提唱で土俵を積み上げ、はじめて清道の旗 ※1 を立てた。
●嘉永6年(1853)
・一番呉服町流「長坂披猛勇」小山町上
6月11日侍従様慶贊(よしすけ。のち長知)君(十二代藩主)が祝部(ほうり)陸奥守 ※2 前に桟敷をかけて御上覧。山笠を二度舁いた。この年ペリー来航。
●慶応元年(1865)
・一番石堂流「至誠感神歌」金屋町下(かなやちょうしも)・同横町(よこまち)
6月11日、五卿(ごきょう)※3 が山笠を見た。太宰府に身を寄せていた尊王攘夷派の五卿は、福岡の藩論が佐幕派に傾いて来たので、筥崎から船で避難するため博多に来た。折から山笠催行の日で、日記に書いている。「藩士少年の輩、また単騎、山の前後を擁して行く。想うにこれ馬術練習の為、故(ことさ)らに馬を喧擾(けんじょう)に馴れしむるの習慣なるべし…」(『回天実記(かいてんじっ き)』記載「五卿在筑資料」より―『福岡県史資料第三輯』所収。片仮名を平仮名にした)
●慶応3年(1867)
・一番土居町流「七勇揮鎗誉」土居町中
江戸時代最後の山。大政奉還により、12月9日王政復古の大号令。江戸幕府約260年、鎌倉幕府以来約680年の武家政権が終わった。また勤皇の歌人野村望東尼が、高杉晋作に救出されて住んだ三田尻(現山口県防府市)で同年11月客死、享年62。
世の中の状況は変わりつづけるけれど、山笠はかわらず走るんだなあ。
次号、昔の山笠明治激動編!
※1 清道の旗…26年前の文政5年(1822)櫛田社への舁き入れ方について、清道旗を立てる願書が博多年行事より、奉行へ出されたが不許可となっていた。該当する「覚」の原文を読み下してみる。
「一、山笠社内舁き入れ方、一番は御桟敷前に据え、御嘉例の通り、歌三つ唄い舁き出し申すべく候。その外二番より六番までは社内に舁き入れ方、左の但し書きに申し上げ候目印を巡らせ、御桟敷前通り古格の歌舁きなりに唄い、出入り為し仕りたく存じ奉り候。
但し、御桟敷前と能舞台との半ばに、御宮附の清道の幡を枠台に立て置き申すべく候。勿論群衆に付き、枠台相柵〆四方に砂俵六俵にて都合二十四俵ほど積立て置き候よう取り計らいたく存じ奉り候。この外個条多く候に付き左に記す也。…」(「山笠記録」/『博多山笠記録』所収)。
※2 祝部陸奥守…現博多町家ふるさと館と前の道路(櫛田参道)は、櫛田社家である祝部家の地所だった。参道は明治時代につくられた。
※3 五卿…文久3年(1863)8月18日の政変で、公武合体派に敗れた尊王攘夷派の公卿七人は京を脱出、長州三田尻に落ちのびた。翌元治元年(1864)禁門の変で長州藩が破れるなどあって、翌年七卿のうち五卿(三条実美・三條西季知・東久世通禧・四条隆謌・壬生基修)は九州大宰府に移った。
長谷川法世=絵・文
illustration/text:Hohsei Hasegawa