山笠の走らない7月、2度目。祭のない博多は季節がめぐらない。ここはひとつ、江戸時代の山笠でも偲んで、しろしい時期をやりすごそう。
『博多祇園山笠史談』に、江戸時代の山笠番付表が記載されている。毎年の一番山から六番山まで※1 の標題・当番町、そして能当番※2 がどこだったかがわかる。その最古の番付は寛文(かんぶん)9年(1669)のものだ。(流(ながれ)名は『筑前国続風土記』より。「 」内は標題。町は当番町 ※3)
・一番石堂流 ※4「衣笠合戦」金屋町(かなやちょう)
・二番東町流「義経鈴の御崎貝取」御供所町(ごくしょまち)
・三番呉服町流「白川合戦」市小路下ノ番(いちしょうじしものばん)
・四番西町流「大職冠」釜屋町(かまやまち)(釜屋番の誤か)
・五番洲崎流「摩屋合戦」洲崎町(すさきまち)
・六番魚町流「上瑠璃」中小路町(なかしょうじまち)
●貞享4年(1687)
・一番西町流「赤沢山岩討」万行寺前町(まんぎょうじまえまち)(二番山以下割愛)
正月に石堂流と土居町流の若者の間に諍いが起こり、6月の山笠で三番土居町流を四番石堂流が追いかけた。追いつ追われつの競争が評判となり、追い山が始まった。
●宝永5年(1708)
・一番土居町流「大渡合戦」土居町中(どいまちなか)・下(しも)
この年より藩の指導で、奇数山を「修羅」※5 合戦山、偶数山を「かずら」※6 と決めた。
●寛保3年(1743)
・一番呉服町流「兵庫河合戦」萱堂町(かやどうまち)・廿家町(にじゅうやまち)※7
これまで櫛田宮の入り口で山笠が押し合いへし合いし混乱するので、待機位置を決め、この年より大乗寺前町(だいじょうじまえまち)・土居町上(かみ)に11間~12間の間隔をあけることとした。現行と同じ。
●明和8年(1771)
・一番魚町流「黒崎城軍」魚町中(うおのまちなか)
六番山当番の洲崎町中(なか)が、山笠に車を付けた。あちこちぶつけて怪我人もでたので取り外した。車は1年限り。
●安永7年(1778)
・一番呉服町流「八島之佳名」小山町上(おやままちかみ)
江戸大御前様(黒田家6代藩主継高夫人)が5月17日ご逝去で、閏7月15日(西暦9/5)まで山笠延期。ちなみに如水・長政以来の黒田家の血筋はこの6代で絶え、将軍家からの養子を迎えて幕末に至った。後半は次回に。
※1 六番山まで…七流のうち六番までが山をつくり、残りの流は能当番だった。
※2 能当番…山の輪番とは別の順序で能当番がめぐる。寛文9年の能当番は記述がないが山を出した六流と照合すると土居町流だろう。
※3 当番町…町名の読みは『古地図の中の福岡・博多』/宮崎克則・福岡アーカイブ研究会編。
※4 石堂流…現恵比須流。以下、流の現在名/東流・呉服町流(今は無い)・西流・大黒流・福神流(松囃子のみ催行)・土居流。これに中洲流・千代流が加わって現在の山笠七流編成となっている。
※5 修羅…現在は「さし山」。
※6 かずら…かつら。現在は「堂山」という。かずらもの(鬘物)の略か。鬘物は女性を主人公とした能(鬘を用いるので)のことで優美幽玄な演じ物。
※7 萱堂町・廿家町…続風土記(1703成立)では萱堂町は茅堂町として西町流、廿家町は東・西に分かれ、廿家町東は東町流れ、西は呉服町流に属している。のちの石城志(1765成立)では廿家町(東西はない)・萱堂町ともに呉服町流に属している。
長谷川法世=絵・文
illustration/text:Hohsei Hasegawa