福岡着任一週間前に家探しに来た。
板付空港を降りて、バスで天神に出る。岩田屋デパートの角に立って、1時間ほど行きかう人々をながめた。直ぐに美人の多い街だと判明する。東京より美人度が高い、ファッション・センスは東京が優れているように思えたが、持って生まれたお顔立ちの美しさは都のはるか上を行っていた。
先輩から東京を出る前に、「仙台、名古屋はともかく、博多は美人が多いと聞いている。うまくすると、伴侶が見つかるかもなあ」と云われた。確かに目鼻立ちのしっかりした勝気そうな美人が多い。希望が湧く。
今泉という場所にある不動産屋にお邪魔した。1Kくらいのアパート、トイレ付、風呂は近くに銭湯があればいらないと伝える。当時、支社は今の西通りにあり、徒歩で10分位の立地ならばの条件をつけた。おじさんが「柳原あたりはどうかなぁ、いや、今は赤坂2丁目と云うんだがね」と云う。歩いて7、8分だから歩こうということになり、国体道路と云う道を西に向かって歩き出した。警固という四つ角を過ぎると欅並木が始まる。私の大学が欅並木で有名で、学園祭も「けやき祭」と云った。何か無理やりにでも縁をこじつけたかった。赤坂で往来を右に入って、最初の路地をまた左に曲がった。奥の左側にその木造アパートはあった。火事でもあれば直ぐに全焼しそうな安普請であった。
1974年のことである。近くを歩いてみると、往来の先になんとケンタッキー・フライドチキンのお店がある。当時まだ東京でもケンタッキーは珍しく、ここには東京があると都落ちの気を奮い立たせた。一膳飯屋や定食屋もあり、ラーメンの「高倉軒」があった。あこがれの「高倉健」か、いいなぁとほくそ笑み、そこから西に20m位歩くと、「ペペルアン」という白い外装のオシャレな喫茶店もあった。銭湯は国体道路赤坂2丁目の横断歩道を渡った路地の右にあり、アパートから小走り2分、横に小さな寿司屋もあり、巻ものを窓口販売しているようで、独身の身には便利そうだった。家賃も8000円と実に手頃だった。一年後に「カンティーナ」というパブ・バーがアパートを左に出て10m位の場所にできた。東京時代の新宿によくあるようなおしゃれなカウンターの店だった。
いろいろな人から、どこに決めたのと聞かれ、あえて「柳原」と答えると、年配の人は直ぐに理解したが、若い人は「赤坂」と答えないと分からないようだった。福岡の町名変更はどんどん進んでいた。
休憩しようとまた西に進路をとる。護国神社の道をはさんだ向かい側におしゃれな喫茶店があった。「ひいらぎ」という店で、磁器のコーヒーカップがふんだんに飾られており、好きな容器を選んで飲める店だった。入って左側の窓際の席に座り、往来を見ながら一服した。
コーヒーの味も素晴らしく、美人も多い。
「この街でやれるで!!」という元気が湧いてきた。
中洲次郎=文
text:Jiro Nakasu
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)
新刊『団塊ボーイの東京』(矢野寛治・弦書房)
◎「西日本新聞 TNC文化サークル」にて
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やましたやすよし=イラスト
Illustration:Yasuyoshi Yamashita