10年前の春、京都嵯峨野の「寂庵」に向かった。私と云うより、主役は妻(矢野千佳子)である。寂聴先生が瀬戸内晴美名で著した「美は乱調にあり」に誤謬が二か所あった。妻の祖母(代千代子)が、大正4年の春に伊藤野枝の夫辻潤(ダダイスト)と東京は染井の家で不倫したと書かれていた。それは全くの誤りで、祖母千代子は当時今宿に暮らし、長男をもうけ、大正3年の12月末に妻の母(嘉代子)を産みおとしたところだった。寂聴先生は千代子と野枝の従姉妹同士が上野高女で同級であり、共に英語教師辻潤を知っており、そこを簡単に結び付けてしまったのだ。
妻の曽祖父である代準介が家の貧しい野枝を長崎に引き取り、娘同様に西山女児高等尋常小学校に通わせ勉強させた。卒業直前、代は遠縁の頭山満を助けるべく上京、野枝を今宿に返し、東京は根岸の小笠原侯爵の家を借りて住む。野枝は千代子が通う上野高女に自分も行きたいと、叔父の代に何通もお願いの手紙を出す。「伸びる木を根元から切れるものか」と代は再び野枝を東京に引き取った。
もう一つの間違いは、大正12年9月16日の伊藤野枝と大杉栄、甥の橘宗一(満5歳)が東京憲兵隊本部で、麹町分署の甘粕大尉とその部下らに虐殺された後の記述である。彼らは裏庭の古井戸に遺体を投げ込み、上から瓦礫で封印した。それが露見し、民間人である代は戒厳令下の東京には入れないので、福岡県警視、陸軍の三浦梧楼元中将、頭山満等に根回しをし、単身上京した。大阪で棺桶を三つ用意し、震災で不通の東海道線を諦め、名古屋駅から中山道を通って東京の西側から入った。代は三遺体を確認して後、荼毘に付し、野枝と大杉の遺児ら4人を連れてまた中山道ルートで博多へ戻った。寂聴先生は、野枝の父亀吉と代の二人で上京したと記しているが、間違いである。代単身の上京、陸軍からの遺体引き取り時の写真も残っており、そこに父亀吉の姿はない。
寂聴先生は妻に会うと直ぐに「お身内には敵いません」と深く謝罪した。
京都嵯峨野の寂庵は大きな木の門があり、前庭は低い木々と草花で美しく植栽され、その間の少しスロープの道を上がっていくと、玄関が見えてくる。その引き戸を開けると、三畳ほどの三和土で、右に式台がある。秘書の瀬尾さんの案内で長い廊下を進むと、左側にあるそれは広いリビングに通された。入るとすぐ右に四谷シモンの大きな人形が飾られており、左奥の木製の大きな円形テーブルに着席した。全面ガラス張りの部屋で、内側の光よけの障子は開けられ、広い庭を見通せた。3時間ほど歓談したあと、先生は「おビールを出して、私、こんなに喋っちゃうと、あした死ぬかもしれないわよ」と冗談を言い、冷たいビールを一気に飲み干した。リビングの廊下を挟んだお向かいに、素敵なバーがあった。カウンターに6、7人は座れるだろうか。「Jakuan」と一本管ネオンがしつらえてあった。先生は妻に「女優さんになれば良かったのに、私は美しい人は大好きよ」と云った。これも謝罪の意だったのだろうか。
10年前の思い出である。先生もお亡くなりになって1年半、大杉と野枝の虐殺からは100年が経つ。月日は巡る。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)
『団塊ボーイの東京』(矢野寛治・弦書房)
新刊
『我が故郷のキネマと文学』(矢野寛治、弦書房)