1981年8月22日、その日はサンフランシスコに用があり、成田空港にいた。そこに台湾で飛行機が空中分解したと館内放送が入った。よく飛行機事故は連鎖する。これから乗る身にとって、少し体がゾクッとした。私が乗る航空会社はノースウエストで、アメリカ入国をハワイとした。本土に渡るのに、ホノルル空港で値段の最も安い航空会社にしようと乗り換え便は決めていなかった。ホノルル上空でランディング体勢に入った。着陸したかに思えたがタッチ&ゴーで、再び上空に舞い上がった。機内に緊張が走ったが、機長から「もういちど、ハワイの島々をお楽しみください」と、余裕のジョークが放送され、乗客全員で拍手した。シスコへはCALカリフォルニア・エアラインが最も安くそこに決めた。
サンフランシスコの宿はフェアモントホテル。ホテル前がケーブルカーの発着所でどこへ行くにも便利が良かった。この夜、1階の大ホールでアンディ・ウイリアムス・ショーがあるとのことで、ドレスコードがあるのか、ブラック&ホワイトに身を固めた紳士淑女がホール前に屯していた。「思い出のサンフランシスコ」を聴きたくて、チケットを尋ねてみたが、すべて売り切れだった。ここに一週間泊まり、当時名を上げ始めていたシリコン・バレーを見学した。アップルをはじめGAFAの各社が、芝生の小高い丘に素敵なオフィスを構えていた。
今回の目的のひとつは、サリナスへ行くことだった。映画「エデンの東」(1955年、エリア・カザン監督)の舞台になった田園地帯である。サンフランシスコから少し南の地で、ジェームス・ディーンがモントレーで売春宿をやっている母に会えず、列車の屋根の上で寒さに耐えるキャルの孤独を好演した。サリナスの緑濃き田園に降りたって、映画を彷彿した。頭の中をモントレーの太平洋の波が満ちたり引いたりする。人間はみなカインの末裔であり、エデンの東こそがこの世であり、シャバなのだ。
カーメルまで南下してみる。俳優や芸術家たちの街として名を挙げ始めていた。自然の美しさとマッチしたキノコのような形の家が続く。往来に信号はない、郵便局も、消防署も、砂糖菓子でできているようで、今にも7人の小人が出てきそうだ。クリント・イーストウッドがこの街の市長になったのは、この旅から5年後の事だった。
UCLAのバークレー校も訪れてみた。映画「卒業」(1967年、マイク・ニコルズ監督)で、ダスティン・ホフマンが揚名した作品で、バークレー校のキャンパスが映る。バークレーの町は本屋さんとカフェが多く、日本の学生街と変わりはなかった。
シスコ界隈を堪能して、出国のためまたホノルルに戻った。そこで台湾の事故で向田邦子さんが亡くなったことを知らされた。前年、NHKで放送された「阿修羅のごとく」の四人姉妹と父親役佐分利信の顔が浮かんだ。頭の中をテーマ曲「ジエッディン・デデン」(トルコ軍楽隊)が物悲しく鳴り響いた。
新刊
『我が故郷のキネマと文学』
(矢野寛治、弦書房)
中洲次郎=文
text:Jiro Nakasu
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)
『団塊ボーイの東京』(矢野寛治・弦書房)
やましたやすよし=イラスト
Illustration:Yasuyoshi Yamashita