友が徐々に先の世を歩き始めた。
とくに仲の良かった友から逝く。いいやつにかぎって先に行く。
私たち団塊は当時年間270万人前後も生まれ、それが昭和22年、23年、24年と3年も続いた。敗戦直後、国土は焦土、そこに大陸からの引揚者や、南方から復員の親父や兄たちが帰ってきた。食糧難の時代だった。
小学校の時、軍隊帰りの先生から、「おまえたちゃのう、数が多いきのう、ゆくゆくは仕事も嫁さんも取り合いぞ、死ぬときゃ、棺桶までも取り合いぞ。そうじゃけん勉強をせなのう」と脅された。母親の家は田舎の庄屋で、曽祖父、祖父は村長だった。引揚げてきて、水商売で糊口をしのいだ。母は身の落剝を嘆き、私には「勉強しろ、勉強しろ、勉強して偉い人になれ」が口癖だった。
中学校では、団塊は「金の卵」と持てはやされて、友人たちの多くは京阪神中京工業地帯に集団就職列車で上らされた。学生服とセーラー服姿で、各駅ごとに船の別れのような、紙テープの別れだった。卒業アルバムを見直すと、みな幼くておぼこい。みなどこかでお爺ちゃんお婆ちゃんになったのだろうか。孫をたくさん抱いただろうか。みな良いところに居ればいいが、同窓会には出てこない。歳をとると、急に彼らの幼顔が浮かび上がってくる。
昭和23年に食糧危機の憂いから、産児制限の風が吹き始め、「優生保護法」(1948-96年)が制定された。昭和24年には中絶手術の事由として、「経済的理由」が加味された。それにより昭和25年から序々にベビーブームは下火となっていった。我々団塊の世代がわずか3年間なのは国家の政治的意図、法律からそうなったのである。
ともあれ団塊はドライとかクールとか言われながらも、流行を作り、消費を創造していった。なんとか嫁を得て、子を育み、ニューファミリーともおだてられ、家電や車、マンションを競って購入した。多量生産、大量消費に寄与し、日本のGDPを押し上げた。
みなもうすぐ全員が後期高齢者となる。若き日に夢見たような人生だっただろうか、それもこれももうすぐ終わる。免許も返納しなくてはならない。故郷を棄てて生きてきた。生まれ故郷に戻りたいが、親も親戚もなく、竹馬の友も徐々に彼岸に渡り、あの山とこの川だけが幼馴染だ。
青雲の志の万分の一にも到達できなかった。ま、いい、人生はどうあれ、良くも悪くも、鳬はつく。鳬がつけば勝者も敗者もない。こんなことなら、いっそ生涯ヴァガボンド、無宿者の路傍の石、どこかで果てるような人生を送りたかった。それもこれもぼつぼつ終わる。さあ皆んな、行こうぜ。♪どうせ一度は あの世とやーらーへー♪
中洲次郎=文
text:Jiro Nakasu
やましたやすよし=イラスト
Illustration:Yasuyoshi Yamashita
●まだまだ書きたいことは種々あるのですが、ちょうど200回目、キリもよくここらで筆を置かせて頂きます。17年もの間、お読み頂きありがとうございました。グッドバイ!(本名・矢野寛治)
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)
『団塊ボーイの東京』(矢野寛治・弦書房)
新刊
『我が故郷のキネマと文学』
(矢野寛治、弦書房)