「与一さんはこどものころ川上音二郎を実際にみたそうですよ。この本にかいてあります」、と博多町家ふるさと館の学芸員が教えてくれた。
与一さんとは、名人とよばれた博多人形師の故小島与一 ※1 さんのこと。秋に開催する小島与一展の準備に忙しい学芸員がみせてくれたのは『人形と共に六十五年―小島与一伝 ※2』という評伝だった。
「川上音二郎が一門をひきつれて展墓(てんぼ)のために帰郷したとき…数十人の喪服行列 ※3 で、みんな浅黄の着物の上に、白の裃、白緒の藤倉ぞうり ※4、鳥追い笠をかむっておりました。その行列は、対馬小路(つましょうじ)から ※5 始まり、狭い行町(ぎょうのちょう)を通り、土居町(どいまち)をのぼって万行寺(まんぎょうじ)※6 まで粛々として進んだのです。黒山のような見物人も、いわゆる寂(せき)として声なく、じっと観とれていましたね。わたくしが八才のときのことでした…」
音さんの父専蔵さんが亡くなったのは前年明治25年、「去る七日今戸(いまど)の自宅 ※7 にて死去せしより、京都南座にて興行中の川上は…ただちに帰京し、父の遺骸は一昨朝日暮里(にっぽり)の火葬場にて火葬となし、今日午前10時出棺、高輪泉岳寺 ※8 の川上一家招魂碑の傍らに葬る由、葬儀は父の遺命により極めて質素になし菩提寺へ焼香料として金100円を奉納するとの事」(中央新聞7/10)
その1年後、川上家のお墓のある博多の万行寺に墓参のため、川上一行は帰博した。与一さんはそれを目の当たりにしたわけだけど、新聞 ※9 ではずいぶんようすがちがう。
「13日には市長・助役・銀行員・新聞記者数名を東中洲町の福村屋に招きて饗応し、さる15日法会を…極(ごく)質素を旨としたれど、知己親戚・川上旧宅町内の人々・出迎えの重(おも)なる人々等を招きしため、寺院にては狭隘を感ぜしにつき東公園地に仮屋を設け、日蓮宗11か寺の僧侶の読経、西洋及び日本古楽の音楽あり、350余名の参列者にて知己友人より寄付の花火をも打ち揚げたり…」(都新聞6/18)
ごく質素のはずが、大盛り上がりで花火まであがるなんて。「黒山のような見物人も、いわゆる寂として声なく」という与一さんの記憶はいったいどうしてくれると、それこそ声も出ない。なので、次回、もうすこし深掘りしてみようっと。
※1 小島与一…1886年博多中市小路生まれ。1900年白水六三郎に入門。09年中市小路で独立。08年重要物産品評会、09年大坂博覧会はじめ各地の共進会などに出品してつぎつぎと受賞。福博であい橋に「三人舞子」のブロンズ像がある。70年没85歳。
※2 人形と共に六十五年…原田種雄著。昭和37年刊。
※3 喪服行列…衣装の描写どおり昔の喪服は白色だった。明治44年の音二郎の新派合同の葬儀(大阪)でも貞奴は白装束。
※4 藤倉ぞうり…藺で編み、白木綿や茶木綿などの鼻緒をつけた草履。
※5 対馬小路から…音さんの生家は中対馬小路だったので、葬列は同町からの出発にしたのだろう。葬列というが実は演劇公演前の「町まわり」らしい。次回詳述。
※6 万行寺…普賢山。真宗西本願寺派。永禄年間性空が普賢堂の道場に万行寺の寺号をもらい、寛文5年祇園町に移った。寺内に名娼名月の墓がある。
※7 今戸の自宅…今戸は現東京都台東区。川上一座は明治24年6月浅草鳥越の中村座で大成功、没落した父専蔵を今戸へ引き取ったのだろう。翌年専蔵は亡くなった。
※8 高輪泉岳寺…中村座の大成功とともに音二郎は泉岳寺の赤穂義士の墓に詣でたが、墓所が荒れ果てているのを見て整備寄進した。
※9 新聞…引用記事2点は『川上音二郎・貞奴―新聞にみる人物像』白川宣力/雄松堂出版より。
長谷川法世=絵・文
illustration/text:Hohsei Hasegawa