博多文琳(はかたぶんりん)※1 のことを111話でかいた。博多商人の神屋宗湛(かみやそうたん)が所有していた名物茶入(ちゃいれ)で、『山上宗二記(やまのうえそうじき)※2』の記事だ。利休の高弟山上宗二(やまのうえそうじ)の著だが、実は宗二記には、楢柴(ならしば)という銘の茶入の記事もある。楢柴肩衝(ならしばかたつき)※3 は島井宗室の秘蔵品だった。宗室は宗湛より年上で、同時代の博多商人であり、信長・秀吉、そして利休とも通じていた。
宗二記の記事を全文現代訳してみる。
〈楢柴肩衝関白様御所蔵。この壺、引拙茄子(いんせつなす)※4 をだされたのちも、なお一種 ※5 にたのしまれました。壺のようすは、宗易(利休)の雑談(ぞうだん)※6 でよく聞かされていました。私は見てはおりません。壺の形は下ぶくらと聞いています。釉薬はあめ色に一段濃く、茶入れ全体を美しく包んでいます。釉薬(ゆうやく)が濃いということで万葉集の「御狩(みかり)する狩場(かりば)の小野(おの)の楢柴(ならしば)のなれはまさらず恋こそまされ」の「恋」を「濃い」にあてて、楢柴の銘にしたものでしょう。この壺、数寄方(すきかた)には天下一でしょうか。天下三の名物です。〉
おしまいの「天下三の名物」とは、新田・初花・楢柴の三名物。みっつとも関白秀吉の所蔵だった。秀吉没後はどれも徳川家にわたり、新田(にった)・初花(はつはな)は現存 ※7 するものの、楢柴は明暦の大火にあい、修復されたのち行方不明となったそうだ。
井上精三著『博多郷土史辞典』にも楢柴の記事がある。長いので要約する。
楢柴は平戸の松浦鎮信(まつらしげのぶ)※8 から宗室がもらいうけた。秀吉が欲しがって再三交渉したが、宗室は家宝だからと応じなかった。秀吉の島津征伐のとき、秋月城主・秋月種実(たねざね)※9 は島津方に加わって敗れた。秀吉の怒りを恐れた種実は宗室から楢柴を盗み、秀吉に献上して命拾いをした。秀吉は島津征伐ののち箱崎で茶会を開くが、そのとき入手したばかりの楢柴を宗室にみせて自慢しようとした。種実の悪計を暴露するのを嫌って、宗室は出席しなかったという。
111話でかいたが、のちに神屋宗湛の博多文琳も、福岡二代藩主黒田忠之(ただゆき)から父如水の遺言であるといわれ、強引に召し上げられた。茶入は高さわずか8センチあまり。その小さな茶器に、秋月種実は一族郎党の命運を賭けた。黒田忠之は父の遺言とまでいって博多文琳を召し上げた。宗二も利休も天下人に対し、自分の茶道を押し通して命を取られた。
日々命がけの戦国の世、一期一会(いちごいちえ)※10 に心の平静を求め、小さな茶器を宇宙のごとく覗き込んで愉しんだひとびとの時代。
※1 博多文琳…文琳はリンゴの異名で茶入の形から文琳とよぶ。文林とも。
※2 山上宗二記…熊倉功夫校註・岩波文庫。
※3 肩衝…肩のやや張った茶入れの名称。
※4 引拙茄子…鳥居引拙(いんせつ)の所持した茄子の茶入。引拙は東山時代の茶湯名人。引拙棚を創案。
※5 一種…意味は法世不明。広辞苑「ひとくさ(一種)」=ひといろ、一種。井伊直弼『茶湯一会集・閑夜茶話』岩波文庫139頁に「二種点」「一種点つる」があり、ここでは「にしゅだて」とルビ。
※6 雑談…ここでは数寄雑談(すきぞうだん)で茶・茶席に関する話。茶席での世事雑談(せじぞうだん。世間話)は禁じられる。「ぞうだん=ざつだん」は古くは「ぞうたん」。博多弁で冗談をぞうたんという。「ぞうたん言うな」は「茶席での世事雑談を言うな」からの転か。
※7 現存…新田は徳川ミュージアム所蔵。初花は徳川記念財団所蔵。
※8 松浦鎮信…肥後国平戸藩初代藩主。楢柴の譲渡は秀吉へのとりなし依頼のためか。
※9 秋月種実…秋月氏16代当主。楢柴献上で家の存続は許されたが、日向財部(たからべ)藩(のちの高鍋藩)に減移封された。
※10 一期一会…茶会は主・客とも毎回一生一度切りと心得ること。利休の師・武野紹鴎は「一座建立」と唱え、利休が「一期に一度の参会」と変えた。山上宗二がそれを宗二記で伝え、井伊直弼が『茶湯一会集』の巻頭に一期一会と書いた。
長谷川法世=絵・文
illustration/text:Hohsei Hasegawa