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ハットをかざして 第169話 バラライカ

ハットをかざして 第169話 バラライカ


 1973年、12月のボーナス日、先輩のクリエイティブ・ディレクターから食事に誘われた。先輩は福岡の朝倉高校から早稲田を出ていた。会社きっての有名コピーライターであり、遠くから憧れていた。

 「今日はボーナスだし、君はアパートに帰っても誰もいないんだろう、飯をおごるよ」

と優しい誘いだった。

 会社近くの「バラライカ」(神保町)というロシア料理のお店で、入口の感じは重厚、アンドン看板は黒字に「バラライカ」と白抜きの太い文字だった。一階部はクラシックな木造で、一見(いちげん)では入り辛い格調があった。店内は奥行きが深く、どのテーブルにも真っ赤なクロスが掛けられ、異国ロシアを思わせた。随所にマトリューシカ人形が飾られ、ホールのボーイはコサックの衣装、ガールは赤いサラファンのワンピースで、どちらの衣装も胸元や袖口に民族模様の刺繍が施されていた。男性はウエストを腰ひもで結び、円筒形のシャプカという帽子を被っていた。

 先輩は一人、女性の連れを伴ってきた。髪はオカッパ頭で、着物を着ており、下はモンペ、いや作務衣だったかもしれない。布製の頭陀袋を袈裟にかけていた。10年ほど先輩のコピーライターだった。

 「黒田杏子さん、名前は知っているだろう、今売り出し中の女流俳人だ」

 と紹介された。当時、三十路を少し越えたくらいだっただろうか。山口青邨さんの主宰する「夏草」に所属しているとのことだった。山口さんと云えば、師系は高浜虚子、黒田さんは高浜の孫弟子となる。コピーライターといえば、作家、詩人、俳人、歌人、脚本家志望者が多かった。皆いつか世に出らんと、今は広告文案書きで糊口を凌いでいた。

 私はロシア料理は初めてで、メニューを見ても何が何だか分からない。オーダーはすべて先輩が取り仕切った。食事になると、コサック姿の三人の楽士が胸にバラライカを抱いて現れた。バラライカは胴が三角形で3弦、1本は金属弦、2本はビニール弦、金属音は鉄琴の音のようであり、その他は木琴に近い清明な音がした。この時代、ダークダックスやデュークエイセスがロシア民謡を歌っており、耳に聞き覚えのある曲だった。「カリンカ」や「ジプシー幻想曲」を奏でた。トレモロがとても速く、物悲しく、去っていった恋人の帰りを乞うような哀切のメロディだった。

 生まれて初めての料理、バルチカ(ロシアのビール)を飲みながら、グーラッシュやガルショーチク、ボルシチ、最も気に入ったのはパンを蓋にしたグリバーミ(壺焼き)だった。先輩と黒田さんの俳句論を拝聴しながら、目は賄の赤いサラファンの娘さんを追っていた。肌の色は抜けるように白く、金髪で、瞳はグリーンがかったブルー、ウエストは蜜蜂のように細かった。私は俳句論は上の空で、ロシアのドーチ(娘)に見惚れていた。黒田さんはこれから9年後、現代俳句女流賞、俳人協会新人賞を受賞し、世に出た。(今、「プレバト」で人気の夏井いつきさんは黒田さんの弟子である。)


中洲次郎=文
text:Jiro Nakasu
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)
新刊『団塊ボーイの東京』(矢野寛治・弦書房)

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やましたやすよし=イラスト
Illustration:Yasuyoshi Yamashita

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