神田神保町界隈には出版社が多い。堂々たるビルの小学館、少年ジャンプの集英社、辞書辞典の三省堂、婦人雑誌の主婦の友、ユリイカの青土社、児童書の冨山房、法律書の有斐閣、文庫と新書の岩波書店、異色辞典の東京堂出版ほかまだまだいろいろ数多ある。学生時代、岩波書店への就職は垂涎(すいぜん)のまとであり、ロビー奥には夏目漱石が揮ごうした木の看板が掲げられていた。神保町は古書店街であり、出版社の街であり、日本の文化と教養と知性を支え守りぬいている街である。
この界隈でのランチは、中華ならば『大雅楼』のチャーハン、あとフヨウハイ(かに玉)。『廬山飯店』のジャージャーメンは天下一品で、夏場は毎日のように食していた。また食したいものだ。
『さぼうる』の満艦飾のピザトーストとフレッシュジュース、『キッチン南海』のカツカレー、『いもや』の天丼とかつ丼、ここのお味が今でも私の味覚の基準となっている。ラーメンは駿河台下の『ピカイチ』、醤油ラーメンのスープに深い奥行きと味わいがあり、一滴も残さず飲み干していた。お江戸一旨かったと思う。
残業をしていると、上司や先輩たちが「まだ終わらんのか」と誘いに来る。誘われれば直ぐに原稿用紙を裏返し、お供をする。理由は夕食代が浮く上に、飲めるからである。誘いを待っているために残業をしているようなものである。しかも社内のいろいろな情報が入る。派閥の情報も入る。お返しは上司の人生訓、先輩たちの処世訓に「勉強になります」と強く頷くことだけである。
一番奢ってもらったのが、『兵六』という小さな縄のれんの居酒屋。カウンター中心で、入るとぐるりぐるっと筆文字で大書されたお品書きが貼り巡らされている。そののびのびとした貫禄のある文字が素晴らしい。薩摩系の飲み屋で、肴はきびなごやさつま揚げ、分葱のぬた、もちろん薩摩焼酎をお湯割りで飲む。東京に焼酎ブームが来るずっと前からここは焼酎であった。客層は出版編集人が多く、女性も一人で来て、きちんと端正に肘を張って飲んでいる。
ちょいとだけ足を延ばして、神楽坂にも連れて行かれた。毘沙門様の前の路地に入ると右手に『伊勢藤』という一軒家の風格のある居酒屋があった。大きな暖簾を分けて、玄関に入り、数歩歩いて左に折れる、そこがお店である。案内されたカウンターに座る。お品書きはない。塩辛を筆頭に決められたものが出てくる。それを頂きつつ日本酒を愉しむ。着物に前掛けのおじいさんがそれは大きな燗付け器の前に座っている。客の言う熱燗、人肌、ぬる燗、注文に合わせてお酒を出してくる。お燗番のおじいさんの前かがみの姿勢が粋で素晴らしい。まるで獲物を求めている腕利きの猟師のようである。だいたいお燗番が居ること自体めずらしい。ここの客層も近くの新潮社を中心に出版社人が多い。皆、静かに酒の味を愉しみ会話を楽しむ。
最後の仕上げは学士会館のBARでスコッチをショットグラスで愉しむ。ここも皆さん姿勢を正して文化論や文学論などを交歓している。お江戸のお店はどこも、粋で知的で洗練されている。ただ50年も前の思い出だから、無くなった店も多いことだろう。
中洲次郎
text:Jiro Nakasu
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)
新刊『団塊ボーイの東京』(矢野寛治・弦書房)
◎「西日本新聞 TNC文化サークル」にて
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やましたやすよし=イラスト
Illustration:Yasuyoshi Yamashita