『山上宗二記(やまのうえそうじき)』は、茶道伝書の草分けの書だ。千利休の高弟山上宗二が書いた。『茶器名物集(ちゃきめいぶつしゅう)』ともよばれるようで、大壺の『三ケ月』にはじまって、名物茶器の名前のいわれ、形、所有者の変遷など、そして値段まで(すべてではないが)記されている。
おなじ安土桃山時代、日本にいた宣教師ルイス・フロイスは、茶器について「われわれは宝石や金、銀の片を宝物とする。日本人は古い釜や、古いヒビ割れした陶器、土製の器等を宝物とする」と書いている(『日欧文化比較』※1)。その日本人の宝物の総覧が宗二記だ。ちなみに「三ケ月」は、戦で六つに割れたのを利休が継ぎ立てして三千貫の値となり、信長の所有となった。五千貫、一万貫ともなるが、本能寺の変で焼けて失われた、と宗二は書く。「三ケ月」のあと、「松島」「四十石の御壺」「松花」…と紹介がつづく。まるでサザビーズのオークションカタログみたいだ(見たことはないけど)。
「文林(ぶんりん)※2九州博多、宗短にあり」の一文がある。宗短は神屋宗湛(かみやそうたん)※3だろう。だとすれば、文林は宗湛所有の茶入「博多文琳」で、秀吉が所望しても譲らず、黒田長政にも譲らなかった。が、二代藩主忠之は長政の遺言であると強要し、五百石の知行と黄金二千枚 ※4で召し上げてしまった。秀吉のお気に入りだった宗湛も、秀吉・長政の没後、徳川の世も定まり時代の趨勢にはかなわなかった。
以上は、岩波文庫版/熊倉功夫校註『山上宗二記』を一読して書いたのだけど、値段を書き連ねているのを見ると、茶の湯者とはいえ、もともと堺の商人だからなあと思う。宗二は秀吉に追放され、諸国流浪ののち小田原にいた。秀吉の小田原攻めのあと呼び出され目どおりを許されたが、再び怒りを買い惨殺された。さて、文庫版には『茶話指月集(ちゃわしげつしゅう)※5』が併載されている。中の逸話をひとつ。
後陽成(ごようぜい)天皇第四皇子の近衛信尋(このえのぶひろ)が、千宗旦(せんのそうたん)(利休の孫)の茶室「不審庵(ふしんあん)※6」にでむいた。宗旦が茶を点てて畳に差し出すと、信尋は驚いて「なにと宗旦 ※7、台天目(だいてんもく)にては何(いず)れの人へ茶をまいらするぞ」と尋ねた。台天目は、天目(てんもく)茶碗を台に乗せて貴人に出す正式の茶の作法。自分は貴人ではないのかと信尋は質したのだ。宗旦は、わざわざ膝が触れるほどの侘びた茶室にみえたので、常人の茶を出したのですと答えた。
「なにと宗旦」というのが、松囃子大黒流言立(だいこくながれいいたて)※8の「いかにそうたん」に、どこかつうじる気がして紹介してみた。
※1 日欧文化比較…岡田章雄訳注「ヨーロッパ文化と日本文化」岩波文庫。
※2 文林…文琳。文林茶入れの略。文林はリンゴの別名。丸く膨らんだ形をリンゴになぞらえて名をつけている。
※3 神屋宗湛…博多の豪商。秀吉の寵を受け博多町割りでも活躍。茶道にも通じ千利休とも交わる。茶会記録『宗湛日記』がある。
※4 黄金二千枚…井上精三『博多郷土史辞典』では五百石の知行は固辞したと書く。『原色茶道大辞典』井口海仙/末宗廣/永島福太郎・淡交社では、五百石と黄金千両となっている。
※5 茶話指月集…茶道の逸話集。利休の孫宗旦の四天王の1人藤村庸軒の女婿久須美疎安が、義父庸軒から聞いた茶話をまとめた。
※6 不審庵…もとは利休が建てた茶室の名。孫の宗旦は1畳半の茶室を作って不審庵と名付けた。
※7 なにと宗旦…原文「常の通り茶を点てて、茶椀〈ママ〉を御前へさし出す。御所、なにと宗旦、台天目にては何れの人へ茶をまいらするぞ、と御尋ねあれば、旦〈宗旦〉、御所のようなる貴人へ進上申し候。されども、かかる容膝の小庵おもしろく思召し、まげて御成りあそばさるるにより、わざと常人のごとくもてなし奉るにて候。…」
※8 大黒流言立…言立は松囃子の道中で子供たちが寿ぎ囃す言葉。一、いかにそうたん、とみのが山に、花が咲いた、みよがし、げいりぎっと、見たれば、黄金花が、さいたよ、めんたよ、かろよ、…(以下略)
長谷川法世=絵・文
illustration/text:Hohsei Hasegawa