江戸時代、福博に疱瘡が流行したとき、終息を願ってお侍も町衆も「疱瘡山(ほうそうやま)」をつくったことを前回ご紹介した。実はそのほかにもつくられていた。正徳(しょうとく)元年(1711)と享保(きょうほう)17年(1732)の2度の疱瘡山が、『石城志(せきじょうし)』※1 に書き残されている。
「(享保17年)子(ね)の五月、津中(市中)より疱瘡山笠(ほうそうやまかさ)を作り、先(まず)、櫛田の社前に舁(か)きもて行(いき)て、町々を廻る事、祇園会(ぎおんえ)に異ならず。其(その)かざりもまた祇園会におさおさおとらず、町毎に多くは是(これ)を作れり。福岡の町も是に倣(なら)いて作出(つくりいだ)せり。此事(このこと)、閏(うるう)五月廿(にじゅう)九日切(きり)に禁止せらる。正徳元年にもかゝる事侍(はべ)りしとかや。」
以上が石城志に残された疱瘡山の記録全文で、この記事の前には、翻刻 ※2 で5ページにわたる、博多の近世の飢饉・疫病のようすが述べられている。天文(てんぶん)8年(1539)が最も古く、延宝(えんほう)2年(1674)、5年、8年、そして享保17~18年の大飢饉にいたっている。
「(天文8年から)享保17年まで百九十三年になれり。其後(そのご)も、所により、年によりて凶荒ありしといへども、此度(こたび)の如くなる西国一同の大飢饉は、百年以来におひて、大老人も聞き伝へざる事也」
凶荒はところにより年により何度もあったが、享保17年は超後期高齢者も聞いたことがないほどの大規模災害だったという。記事は、『石城志』の最終12巻目「雑著(ざっちょ)」に書かれている。11巻までに書き洩らしたいろいろなことを、タイトルどおり分類せず見出しもつけずアトランダムに書きつらねてある。
飢饉についても、天正20年に「豊臣太閤、神屋宗湛(かみやそうたん)※3 宅へ入(いら)せ玉(たま)ふ(給う)」。そのときの献立が焼き貝・みそ焼きウド入りお汁・麩・ねり味噌・ごはんなんて記事のあとに、いきなり「一、博多記 ※4 曰(いわく)。延宝二甲寅年(きのえとらどし)、飢饉す。遠賀郡、鞍手郡殊(こと)に甚ふ(はなはだしう)して、…餓死する者甚(はなはだ)多し…」とはじまる。そしてその時々の飢饉の状況・疫病の発生・とられた対策などが羅列され、疱瘡山の記事はその最後にかかれている。
疱瘡山のことをいうとだれもが、昔はのんきなもんだというような顔をする。前回のわたしの書きぶりもそうしたものだったのだが、石城志の飢饉・疫病の記事をよむと、当時の博多の町衆が、単なる遊びで疱瘡山を作ったのではないことがわかる。川端飢人地蔵(かわばたうえにんじぞう)※5 と西門(さいもん)飢人地蔵 ※6 はこの時にできた。以下つづく
※1 石城志…博多地誌、全12巻(巻之一は欠)。博多の小児科医津田元顧・元貫親子の編著。明和2年(1765)まで数年を要した。誤謬・架空のことも少なからずともいう。大正8年筑紫史談会により復刻発刊(翻刻本付き)。引用はその翻刻本から。
※2 翻刻…写本・刊本を底本に木版・活版などで刊行すること。
※3 神屋宗湛…。博多の豪商。秀吉の覚えよく大阪城大茶会に招かれたときは、石田三成の給仕で食事をし、一人だけで茶器を拝見した。博多町割奉行とも。櫛田社歴史資料館に町割の際もちいた6尺5寸4分の「間杖/けんじょう」の複製がある。本物は納められていた宗湛屋敷跡の豊国神社とともに空襲で焼失(神社は再建)。1553~1635
※4 博多記…博多地誌。鶴田七右衛門の著。享保のころ書かれた。貝原益軒の筑前国続風土記からの転載が多い。石城志著者もあまり信用していない(井上精三「博多郷土史辞典」)。が、延宝2年の飢饉の記録は引用している。
※5 川端飢人地蔵…享保の飢饉の死者を弔う地蔵尊。上川端町が世話をして毎年8月23、24日に施餓鬼法要を営む。灯篭流し、花火、甘茶のふるまいなど。
※6 西門飢人地蔵…こちらも同じ享保の飢饉由来の地蔵尊。8月23、24日幻住庵など僧侶8名による施餓鬼会が営まれる。旧西門町・中小路が世話している。
長谷川法世=絵・文
illustration/text:Hohsei Hasegawa