新型コロナ禍で、博多松囃子も博多山笠も行事が中止あるいは延期となり、博多の町は時が止まってしまったようだ。江戸時代の記録では、将軍や藩侯などの病気や死没、また天候不順などの理由でなんども延期されている。
昭和時代も空襲・敗戦で3年間の空白があった。昭和20年6月19日の福岡大空襲で山笠は中止となったが、翌21年5月25日には「第一次博多復興祭」が催され、「名物〝松ばやし〟が焦土のなかを、三福神や五彩の傘鉾を先頭に、華やかなドンタク行列に…昔なつかしい三味(しゃみ)・太鼓の音も賑やかに」、そして「勇壮な〝中子供山笠〟が人形のかわりに、豊太閤の絵を飾り『みんなの博多・みんなで復興』の表題を掲げ」(博多祇園山笠史談 ※1)て瓦礫の中を舁き廻ったのだった。「当時、道路上にも未だ焼け土が約2尺(60〜70センチ)ほど堆積していたが、福岡市復興部が、山笠ドンタクの通路約六キロ上の瓦礫を排除」(同書)した。
本格的な山笠復興はようやく昭和23年。7本の舁き山が流れ舁きから追い山まで催行されたのだった。
山笠の中止は明治時代にもあり、こちらのほうが深刻だった。体制の大転換期に、前体制に沿ってきた祭などが中止になることは当然かもしれない。
明治5年に県参事により禁止された山笠は明治16年に復興するまで、実に11年の空白を余儀なくされた。
明治5年11月に県参事から、松囃子・山笠をはじめ作り物類は6年からいっさい禁止という通達があった。〈従来神仏祭祀そのほか例日など謂(い)われなく戯技を営み空金銭を費やし候様の悪弊も少なからず…〉(博多山笠記録 ※2 から読み下し)というのが理由。明治8年山笠再興を出願したところ、6月13日午後5時に許可が出たので、14日夜山を立てた。飾り物もなく人形も一体だけ ※3。翌年からまた禁止となった。松囃子は明治11年2月11日から天長節のお祝いとして三福神のみ再興できた。
明治の山笠の本格的再興は16年、山笠制作願いを出しつづけて11年ぶりのことだった。一番山土居流(どいながれ)の当番町は中土居町(なかどいまち)※4。表題は「勇義貫石誉」(読み方内容とも未詳)。すでに電信線が架設されていたため、低い山しか走れなかった。何年も我慢したあと、明治25年、資金を集めて電柱を高くしてもらい、やっと昔ながらの高い山笠を復活した。
博多人の山笠への思いは筋金入りだ。コロナから復活する山はどんなに熱いことだろう。
※1博多祇園山笠史談…落石栄吉・博多祇園山笠振興会。昭和36年。
※2博多山笠記録…博多祇園山笠振興会発行。昭和50年。
※3人形も一体だけ…四番山呉服町流市小路町中のみ人形を2体飾った。市小路は太閤町割りで最初に縄張りされた町なのでがんばったのだろう。
※4土居町…明治7年町名改定があった。市小路町中は中市小路となるなど、町名の下につけられていた上・中・下が町名の上に。◯◯小路町は町を省いた。竹若「番」などは「町」に統一。明治9年まで山笠関係は旧呼称だったが、10年からは新呼称にされた。したがって16年の山笠再興の喜びと同時に、中土居町表記となった土居町中の人々の心中はいかに。ちなみに中土居町は法世参加の町。
長谷川法世=絵・文
illustration/text:Hohsei Hasegawa