
消えた鎮守の森
所用で出雲市に出掛け、帰路、出雲大社に参拝した。黒松の巨木が並ぶ参道は神域への入り口にふさわしい厳かな砂利道。針葉樹独特のさわやかな香りがかすかに漂う。
旧暦十月は「神無月」という。全国八百万の神々が出雲大社に集まり、出雲以外では神々が不在になるためだ。逆に出雲ではこの月を「神在月」と呼ぶ。
興味を引いたのは、本殿の東西に並ぶ十九社。別名御宿社、八百万の神々の宿泊所だ。全国津々浦々から長旅をして出雲の地に集まってきた感じがよく表されていた。
二年前、伊勢神宮の式年遷宮と出雲大社の大遷宮が重なり、ブームに刺激されて私も伊勢を訪れた。広大な内宮、外宮を巡るうちに改めて気づかされたことがあった。
それは伊勢神宮が荘厳な鎮守の森と一体になっていることである。これは、伊勢だけでない。すべての神社に共通するものだ。
日本の神社における「聖なる空間」は、西洋の教会と違って建物の中だけにあるのではない。社殿と鎮守の森を合わせたゾーンが全体として「聖なる空間」を構成している。これは自然が神であるというアニミズム的信仰にもとづく。
江戸時代、伊勢への参拝者は爆発的に増えた。弥次喜多の『東海道中膝栗毛』に見られるように、多くの庶民が物見遊山を兼ねて「お伊勢参り」をした。それは「お陰参り」とも呼ばれた。
私はこの「お陰」という言葉に強く魅かれる。しかし、いま「お陰様」という感謝の意を込めた日本語は次第に姿を消しつつある。神様や仏様、先祖や両親のお蔭でいまの自分がある、生かされているという謙虚さが次第に薄らぎつつある。寂しいことだ…。
そんなことを思いつつ、久しぶりに古里に帰り、近くの神社へ参拝に出掛けて驚いた。かつて周囲を覆い尽くしていた木々がすっかり伐採されていたからである。社殿を遮るものが何もなく、丸裸になっている。
家が立ち並び、道路も拡張されたため、その余波を受けて神社一帯も防犯対策上、整備されたのだろう。しかし、明るくなった分、形容し難い喪失感が込み上げてくる。
幼き日、この神社は畏怖の対象ではあったが、同時に異次元の世界へ導く神秘性を帯びていた。それを醸し出していたのが樹齢を重ねた木々であった。消えた鎮守の森に思いは複雑である。
(ジャーナリスト。元西日本新聞記者)
馬場周一郎=文
幸尾螢水=イラスト