今回のコロナ禍で多くの人に衝撃を与えたのは、志村けんさんと岡江久美子さんが無言の帰宅をした映像だったのではなかろうか。
岡江邸では、関係者によって運ばれた骨壺が玄関先にそっと置かれ、ややあって姿を現した夫の大和田獏さんが骨壺を両手で抱えて報道陣に挨拶するシーンが映し出された。
この映像を見ながら私は「死」という今生の別れにあらためて深い思いをめぐらさずにはおれなかった。そして脳裏に浮かんだのは、浄土真宗中興の祖とされる蓮如の「白骨の御文章」だった。
《朝に紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり》
朝にはあれほど元気だった者も、夕方には亡くなって骨になるかもしれない。人の命とはそれほどはかない。これが人の世の常であり、避けられぬものならば、いまこのときを懸命に生きる以外にない…。これが私なりの解釈である。
平均寿命が男女ともに80歳を超え、「いかに生きるべきか」ではなく、「いかに死すべきか」が重要なテーマになった長寿国日本。がんの告知は当然となり、終末期医療についても多角的な議論が交わされる。在宅死も着実に広がっている。その意味で、現代は「自分の死に方を創る」時代と言っていい。
それはそれで歓迎すべきことなのだが、忘れてならないのは「ピンピンコロリ」にせよ「大往生」にせよ、一定の時間を生き抜いたうえでの「死の創り方」であり、それはある意味、上質な課題と言えなくもない。
春から夏へ、そして秋から冬へ。私たちは季節が確実に巡ってくるように、人生もまた生老病死が順番にやってくると錯覚しがちだ。しかし、人の一生に春→夏→秋→冬→春のサイクルは保証されていない。
若くして不治の病に侵されたり、非業のアクシデントに見舞われることは日常茶飯。だからこそ、蓮如の無常観が私たちの心を捉えて離さないのである。
身内だけの密葬を済ませた後、死亡を公表・通知するケースが多くなっている。葬儀の形はまさに百人百様の時代を迎え、コロナ禍は多様な葬儀の出現を加速させるだろう。
しかし、どんなに時代が移っても、あるいは葬送の姿が変わっても、死者への哀悼と惜別の念が消え去ることは決してない。
コロナ犠牲者を数字で括ればひとり一人の顔は見えないが、それぞれの人生に分け入れば、有名無名に関係なく誰にも確かな生の足跡が遺されているからである。
(ジャーナリスト。元西日本新聞記者)
馬場周一郎=文
text:Shuichiro Baba
幸尾螢水=イラスト
illustration:Keisui Koo