4世紀、東晋の実力者だった桓温(かんおん)が蜀に攻め入ろうとして、三峡までやってくると、兵士が戯れに子猿をつかまえた。そのまま軍船に乗せて進むと、母猿が岸づたいに悲しげに鳴き叫びながら、あとを追ってくる。
百里あまり行っても去ろうとしない。とうとう船の中に飛び込んで来て、そのまま息絶えた。調べてみると、腸がずたずたにちぎれていた。桓温はこの話を聞いて嘆き、兵士を罷免させた…。
「断腸の思い」という故事の由来を中国の逸話集『世説新語』から引いた。昔の中国人にとって腸は単なる消化器官ではなく、「こころ」を意味した。母猿と子猿の例えから分かるように、断腸とは「腸がちぎれるほどに耐え難い別れ、悲しみ」をいう。その本来の意味を私たちに繰り返し教えてくれているのが、北朝鮮に肉親を拉致された家族の方々に他ならない。
1977年11月15日、当時13歳の中学1年生だった横田めぐみさんは北朝鮮工作員によって拉致された。
父滋さんはその前日、45歳の誕生日にめぐみさんから携帯用の「クシ」をプレゼントされた。「お父さん、これからはオシャレにも気をつけてね」と言いながら。(光文社『めぐみ手帳』から)。
全国を走り回った滋さんが肌身離さず手にしていたのは、めぐみさんからのクシだった。滋さんにとって、クシはめぐみさんそのものだったに違いない。
八女市黒木町の知己、松尾満留美さんから送られてきた新茶に心和ませる一文が添えられていた。
「6月、家の周りは田植えも終わり、玄関先に毎年作るツバメの巣からも無事、6羽が旅立って行きました。無事というのは、ヘビが卵やヒナを狙って上っていくのです。撃退のために線香を焚いたりして一日中、大変なのです。
でも、折角、我が家に来てくれたのですから無事に巣立って欲しいと2週間、頑張りました。いま電線に朝夕、親子6羽が並んで、お礼を言うように元気にさえずってくれています」
ツバメについては私も体験がある。黒木町に暮らしていた小学生のとき、巣から落ちたヒナを保護し、鳥カゴに入れたところ、気付いた親ツバメが何度も鳥カゴまで降りて来て懸命にヒナを連れ出そうとする。亡き母と二人、梯子を使って巣に戻したが、あのときの親ツバメの懸命さは今も忘れない。
親と子が無残に引き離される。「腸がちぎれるほどの悲しみ」の深さに、猿も、ツバメも、人間も、何の違いがあるだろうか。
(ジャーナリスト。元西日本新聞記者)
馬場周一郎=文
text:Shuichiro Baba
幸尾螢水=イラスト
illustration:Keisui Koo