過ぎ去りしこの夏、2つの死について考えた。
ひとつは、若手俳優Mの自死である。容姿、才能に恵まれ、人気絶頂での死の選択に、ファンならずとも絶句し、「彼に一体なにがあったのか」と戸惑った。
私もかつて大切な友を同じようなかたちで失った。その体験は、若かった私に「人は肉体を病むだけでなく心も病む」という当たり前のことを教えてくれた。
肉体の衰弱と死は、目に見えるから誰にでも分かる。だが、心の異変は病巣の姿が必ずしも明瞭ではない。周囲は、本人の死によってはじめて、精神が負荷の限界値を超えていたことを知る。
実存主義哲学者・キルケゴールの著『死に至る病』。彼は「死に至る病とは絶望のこと」と言っている。絶望とは何か。キルケゴールは、極めて難解な定義をしているが、私は絶望とはズバリ「魂の死」と考える。
その昔、ラジオの人生相談で「絶望とは愚か者の結論なり」と説き、相談者を元気づける名物パーソナリティがいた。だが、時代はいま、人々の精神構造を弱体化させ、多くの「魂の死」を招いていることに私たちは気付かされる。
もうひとつの死は、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性が、薬物投与を依頼し、それに応じた医師2人が嘱託殺人容疑で逮捕された事件である。
この事件で私が最も共感を持って読んだのは、「ALSを生き抜いたスーパーウーマンが、安楽死しか選べなかった理由」というネットでの記事だった。筆者は、みわよしこさんという福岡市出身のライターである。
この事件を報じるメディアの多数が「生の否定につながる」というトーンだったのに対し、みわさんは、通俗的解説から一歩踏み込み、女性がいかに懸命に生きようとし、そのうえで死を決意した現実を冷静な視点で追っている。
記事を読んで思った。たとえ、病に侵されても運命を引き受け、強く生きようとした人は、肉体が滅んでも精神は消滅しない。その人がやろうとしたことの意味を少数であっても誰かに伝えられれば、肉体は死んでも精神は永遠の時間を生き続ける。
人は、希望があれば生きていける。どんなささやかなことでもいい。「今日もあの人と話ができる」「明日には花が咲く」「あと少しで本を読了する」…。
その希望が断ち切られたとき、人は絶望の淵に立つ。「希」望と「絶」望は一字違いだが、私たちはそのとてつもない距離の2つの岸を行きつ戻りつしながら今日を生きている。 〈完〉
(ジャーナリスト。元西日本新聞記者)
◎今月で「世は万華鏡」は最終回となりました。長い間、ご愛読ありがとうございました。
馬場周一郎=文
text:Shuichiro Baba
幸尾螢水=イラスト
illustration:Keisui Koo