
「強い言葉」は「弱い言葉」
犬の目の前にエサをおいて「待て」の状態を保たせると、犬から唾液が自然に出てくる。つまり、食べ物を目の前にすると自分の意思に関係なく涎を垂らすようになる…。
旧ソ連のパブロフ博士が発見した「パブロフの犬」理論。条件反射の喩えとして知られているが、今年は戦後70年のせいか、安全保障法制や総理談話に対する条件反射がいつになく直線的で、キーも一段と高い。
「戦争」といえば「反対!」、「平和」といえば「守れ!」といった式の条件反射のことである。そういう反応を誘い出す意図的な設問の世論調査もある。
「税金は高い方がいいか、安い方がいいか」と問われれば、だれもが「安い方」と答えるだろう。でも、こんな質問が無意味なことは、子供でも分かる。ところが、こと国防については「戦争か、平和か」の相変わらずの二者択一型だ。
「安保法制」が「徴兵制」かどうかは個人の思想信条に関わるから触れないが、考えたいのは一見威勢がよさそうな攻め手側にさほどの手応えが広がっていないように感じられることだ。なぜか。原因は「強い言葉」にある。
マイクでの絶叫、プラカードに踊る文字…。それは「強い言葉」だ。一般的には断定的な言葉が政治的メッセージに優れ、大衆への説得力を持っているように思いがちだが、そうではない。
このことを考えるときに、私は希代の文筆家だった清水幾太郎が30年以上前に書いた『検閲とレトリック』という論稿を思い出す。この中で、清水は「表現の自由」がかえって「表現の劣化」を招くとの逆説を示している。
かつての検閲の時代、著述家は自分の文章が陽の目をみるように巧みな表現技術を磨いてきた。検閲者の顔を立てながらも、それとは違う考えを「弱い言葉」で滲ませようと苦心した。
ストレートな強い言葉は「読み手の心に入る前に爆発してしまう」のに対し、控えめな弱い言葉は「読み手の心にそっと入った後、小さな爆発を遂げることがある」。かくして、文章技術やレトリックは表現の自由がない時代にこそ練磨された、と清水は言う。
思想的に敵対する人々の心に染み入るような言論力こそ政治運動の命でなければならない。強い言葉は実は弱い言葉なのである。武装された強い言葉だけの応酬は、この国の民主主義と自由な精神を確実に衰弱させるだろう。
(ジャーナリスト。元西日本新聞記者)
馬場周一郎=文
幸尾螢水=イラスト