
金子みすゞの「いのち観」
鯨法会は春のくれ、海に飛魚とれるころ。
浜のお寺で鳴る鐘が、ゆれて水面をわたるとき、村の漁師が羽織着て、浜のお寺へいそぐとき、
沖で鯨の子がひとり、その鳴る鐘をききながら、死んだ父さま、母さまを、こいし、こいしと泣いてます。
海のおもてを、鐘の音は、海のどこまでひびくやら。(金子みすゞ「鯨法会」)
春深い海辺の村。陽光の下、漁夫たちの賑やかな話し声、対照的に海中では悲しみに暮れる子供鯨、どこまでも響いてくる鐘の音…。この情調美に私は深く魅せられる。
詩の舞台・山口県仙崎村(現長門市)は、江戸初期から明治初めまで捕鯨基地として栄えた漁師町だ。この町を訪ねると感動で胸がいっぱいになる。鯨や魚に対する人々の慈悲の心に、である。
鯨の霊を鎮魂するための法会を営み、海を見下ろす場所には鯨墓がある。捕鯨がなくなったいまも法会は営々と続けられている。
もっと感動するのは、向岸寺に伝わる鯨の過去帳である。捕獲した鯨に人間と同じように戒名をつ
けている。「智誉鯨恵ザトウ」などの戒名を見ることができる。
高い位を示す「誉」のつく戒名は、人間でも相当な徳がなければもらえないという。仙崎の人たちが鯨に対し、いかに報恩の念を抱き続けてきたかを物語る史料だ。
「鯨法会」が胸を打つのは、安っぽい動物愛護ではなく、生きるためとは言え、鯨を捕獲解体し、食に供する人間の業、そして尽きない感謝、残された子鯨への憐憫|が静かに語られていることである。
佐世保市や川崎市でのような凄惨な事件が起こると、メディアや識者は「いのち」の大切さを学ぶ教育を声高に叫ぶ。しかし、「いのち」は単に教訓や理屈で教え、学べるものではない。
現代の「いのち教育」が薄っぺらで、心に響かないのは、私たちがややもすれば「生」に力点を置き、「死」を見えないようにしてきたことに一因がある。
日本には昔から「山川草木悉有仏性」「一寸の虫にも五分の魂」という言葉がある。ここには、「いのち」あるものへの真の敬愛の情が脈打つ。
世界の反捕鯨団体は日本を野蛮国と糾弾し、調査捕鯨を執拗に妨害するが、その前にみすゞの「鯨法会」を読んで、「いのち」に対する日本人の深い心性を理解してほしいと思う。
(ジャーナリスト。元西日本新聞記者)
馬場周一郎=文
幸尾螢水=イラスト