
ゆっくりと息を継いで
中学校の同窓会が卒業から初めて50年ぶりに開かれた。前期高齢者になる今年、ぜひとも全員集合したいと田舎で頑張る有志が企画してくれた。
250人ほどの卒業生のうち参加者は70人。物故者も確認されただけでも20人ほど。世話役の幹事が名前を読み上げ、黙とうした。クラスで一番体が大きく、野球部員だった男の早逝には「エッ!あいつが…」の声が上がった。
近況報告では、卒業以来の「道のり」と「いま」が飾らない言葉で披露された。驚いたのは、少なからぬ男たちが65歳のいまも何らかの形で仕事に関わっていること。
仕事の中身、雇用形態、賃金などは多種多様だろう。働く動機も「生きがい」から「やむを得ず」までさまざまだろう。そうした個別事情を勘案してもなお、多くの男たちが家庭の外と接点を持っていることに改めて時代性を覚えたのだった。
人口減少社会。生産年齢人口が減り、女性と高齢者がその代替要員としての役割を期待されている。しかし、そうした状況とは無関係に、女性も高齢者も意思と能力がある限り、それを受け入れる社会であることが本来の理想に違いない。
仲間の顔を見ながら、ふと依存症のことを考えた。定年退職をきっかけに各種依存症に陥り、人生を一変させた人が増えている。
例えば、アルコール依存症。依存症患者の中に高齢者が増加しているとのニュースはしばしば報じられる。
パチンコに代表されるギャンブル依存症もそうだ。出会い系サイトに絶え間なくアクセスする出会い系依存症というのもある。
だが、マイクを握る目の前の同級生に、依存症の気配は微塵も感じられなかった。よくよく考えてみれば、我ら団塊は「ワーカーホリック」という依存症の世代である。「24時間戦えますか」は、企業戦士として栄光への旗印でもあった。
しかし、ある時から働くことがまるで罪悪のように言われるようになった。家庭を顧みない、育児に関心を持たない、「メシ、フロ、寝る」のボキャ貧…。
反省は確かにある。しかし、要は働き方の問題であって、働くことそのものに罪はない。その証拠に舞台が回り、いまでは70歳までの就労が社会の要請になってきているではないか。
走り続けてきた団塊の多くはこれからも走ることを止めないだろう。ゆっくりと、静かに、息を継いで走っていこう。そう思った同窓会の夜だった。
馬場周一郎=文(ジャーナリスト。元西日本新聞記者)
幸尾螢水=イラスト