
異形の男たち
戦後5年ほどして生を受けたので、戦争の直接の記憶はない。
物心がついた頃には、高度経済成長のエンジンがうなりを上げ始めていた。そしてフォーク全盛の学生時代は妙に明るい「戦争を知らない子供たち」を仲間と口ずさんだ。
それでも幼き日の細い糸を手繰っていくと、ある光景が戦争と重なり合う。それを最初に見たのは園児のときだった。
父母と出掛けたある日、行き交う人ごみの中にアコーディオンやハーモニカを奏でる異形の男たち。白装束に軍帽。ある人は義足、ある人は片手がなく、ある人はサングラス…。その出で立ちに思わず恐怖を覚え、母の背に身を隠した。
傷痍軍人。この言葉を知ったのはずっと後になってからである。以後、昭和30年代中頃までは祭日や初詣などで時折見掛けていたが、いつとはなしにその姿も消えていった。傷痍軍人が街頭からいなくなっていく日々。それは日本人から戦争の記憶が遠ざかっていく序章でもあった。
昭和47年、新聞記者になって足を踏み入れた編集局には戦争の影があちこちに残っていた。海兵、陸士出身の記者が少なからずいて、紙面の打ち合わせ会議は「御前会議」と呼ばれた。
「軍隊上がりの先輩殿に原稿をチェックしてもらうときは直立不動に敬礼付だぞ」と脅かされた。特に忘れられないのはM氏だった。体も声もデカく、面貌もそれは恐ろしかった。
しかし、何よりも目をくぎ付けにしたのは、右手首がないこと。不気味に光る鉄製義手がただ者ではないことを物語っていた。聞けば、昭和18年秋のブーゲンビル島沖航空戦でグラマンと交戦中に吹き飛ばされたのだった。
傷痍軍人の全国組織・日本傷痍軍人会が11月末で解散した。昭和27年の設立当時は35万人の会員がいたが、直近で5千人、平均年齢は92歳まで高齢化していた。
降る雪や明治は遠くなりにけり 中村草田男
この有名な句の初出は『ホトトギス』の昭和6年3月号。草田男30歳。母校の小学校を訪ねたとき、雪が降ってきた。その瞬間、明治という時代が過ぎ去ったのを強く感じたという。
明治が終わったのは、この句から20年ほど前のこと。現在から20年をさかのぼると、時代は昭和を過ぎて早や平成である。
傷痍軍人会の解散は遠ざかる昭和をいやでも感ぜざるを得ないのである。
馬場周一郎=文(ジャーナリスト。元西日本新聞記者)
幸尾螢水=イラスト