
「自分らしい死」― その理想と現実
「死に方」の本が絶え間なく出版され、実際によく売れている。
あるカルチャーセンターは、延命治療や葬儀などの「終活」講座が不動の人気を誇り、自分の骨壺をつくる特別講座まであって結構な人が集まっているという。
明日への希望が満ちている社会は、「生きる」というポジティブ思考が必然的にもてはやされ、「死」はどうしても敬遠されがちだ。それが逆転したのは、「医」や「死」に対する私たちの意識の変化がある。
ただし、「自分らしい死」といっても、何をもって「自分らしい」と規定するのか、これが難しい。孤独死が「自分らしい最期」と思う人だっていないとも限らない。
私の取材実感では、「自分らしい死」と言う人は、肉体的にも経済的にも恵まれた層が多く、本音は至極世俗っぽい。「できれば自宅で、家族に看取られて…」と、贅沢このうえないことをのたまう人もいる。
『大往生』(永六輔)に始まる「死に方」ブームは、格好良く言えば自分探しの思索ツアー、辛辣に言えば有産階級の単なる好奇心ツアーである。
2003年2月のある夜、福岡市東区のJR鹿児島線踏切で、70歳前後のご夫婦らしい男女が飛び込み自死された。2人は線路上に抱き合って手を合わせていたという。その記事を読み、込み上げるものがあった。
死を決意するまでには、いろいろな事情があっただろう。あっただろうが、偕老同穴(かいろうどうけつ)を誓ったはずの夫婦が、なぜこんな無残な形で人生の幕を下ろさねばならなかったのか。
ばく進してくる列車を目前にしたとき、2人にはこれまでの人生のどんな風景がよみがえっただろうか。悲し過ぎる記事であった。
平均寿命が短い時代にあっては「老い方」や「死に方」など考える間もなく、あの世に旅立っていた。ところが、現代は医療技術の進歩であっさりと死なせてくれない。
自分の体でありながら、「いのち」の決定権が医師たちに委ねられ、思いが十分に届かない現実。そこにモヤモヤとした感情が充満する。
命長き時代=超高齢社会は、生産労働人口の減少に伴う社会の活力低下ばかりが不安視されるが、本当の危機は人々から尊厳ある老い方、死に方を奪い取ることである。だからこそ、美しく老い、美しく死ぬ本が売れ続けるのだろう。
馬場周一郎=文(ジャーナリスト。元西日本新聞記者)
幸尾螢水=イラスト