
昭和―夢と希望の30年代
所用で大牟田に出掛けての帰り。電車の駅で、あるポスターが目に止まった。懐かしの炭都写真展―。「じぇじぇじぇ!」「おら、これからすぐ行くだ!」。
昭和30年代、荒尾市と道一本隔てた大牟田市三里町に住んでいた。学校には炭鉱マンの子供が多く、炭住街へ出掛けては野球をし、有明海で泳いだ。
閉館時間が迫る会場で、時計の針に急き立てられながら私は写真の一枚一枚からあの頃の匂いを懸命に嗅ごうとしていた。
そういえば、この感覚はどこかで味わったことがある。そうだ。「旅する民俗学者」と呼ばれた宮本常一の写真展を観たときだった。
昭和37年から3年間、地方の暮らしぶりや風景を撮った二百枚余が展示されていた。民俗学者だから神社仏閣や村祭りなどが主かと思ったら、さにあらず。
庭先の洗濯物や台所など何の変哲もない日常や村人の表情など実に平凡な写真の数々。鋭いカットもなければ、鮮烈なショットもない。だからこそ、そこには昭和という時代の裸の営みが脈打っていた。
宮本は『忘れられた日本人』など膨大な著作を残したが、いまそれらを読み返し、感慨を深くする。
宮本の目に映じたもの―。それは名も無き庶民の慎ましさと飾らない美しさ。しかし、それは高度経済成長の轟音とともに消え行く運命にあった。
手作りの時代から大量生産・大量消費の時代へ。宮本が各地を歩いて日本人の原風景をカメラにおさめているまさにそのとき、神宮の森に響いた東京オリンピックの祝砲はひとつの時代の終焉を告げる弔鐘だったのだ。
宮本の写真と炭都の写真が呼び覚ますのは単なる郷愁ではない。ほんの50年前の日本にこんなにも豊かな人と人の触れ合いがあったという喜びなのである。
焦土から30年代へ差し掛かるまで日本人はだれもが貧しく、腹をすかしていた。子供は継ぎ接ぎだらけの服で、鼻水を垂らしていた。しかし、あの時代を懐かしく回想する人たちは口を揃える。
「人々は今よりもはるかに明日への夢と希望にあふれていた。家には家族の笑顔があった。子供手当も、介護保険もなかったが、みんなで子供を育て、お年寄りをいたわった」と。
宮本が歩いた昭和の日本はバックミラーの彼方に遠ざかったのである。
馬場周一郎=文(ジャーナリスト。元西日本新聞記者)
幸尾螢水=イラスト