ケツネうどん
私は自分で、自分のあだ名を付けていた。その名も「ロベスピエール」、東京の夜の底を這いずり回っていた頃、気位の高い野良猫の名を状況劇場から拝借していたのだ。
紅テントの中で、李礼仙が低く開き直った声で唄っていた猫の名である。テントの中は田舎者ばかり、みんな花の東京に出てきて、何かが開かれると思っていたのだろうが、そうは東京は下ろさない。いっそう孤独の黒い闇に包まれ、都会の怜悧な砂地獄に堕ちていく。田舎への手紙は、親に心配をかけまいと、いかにも青春を謳歌しているかのように虚勢を張る。虚勢こそが青春である。虚勢、去勢…東京は淋しく切ない街だ。
その苦衷を四十余年前、紅テントに救われた。何んなんだこの肉弾戦は、この無頼、この汗、この唾液の飛び散り、喧嘩のような見得、香具師を思わせる野太い声。以来、トリコとなり、新宿花園神社「腰巻お仙」、新宿西口中央公園の「振袖火事」「少女仮面」「少女都市」と追いかけ、西武パルコ前の空き地で「吸血姫」、さらに夢の島、不忍池「二都物語」と追いかけた。私はまだ二十歳のお上りさんだった。
ただ勢いだけの、肉体派ハチャメチャ劇である。紅いテントの中にいると、なぜか大都会での孤独を忘れた。みんな両のこぶしで腰を浮かせ、奥へ奥へと体をずらせて行く。知らぬ他人と密着し、大鶴夫婦(唐十郎と李礼仙)の劇を観るのである。今思えば、あのテントの中は私の阿片窟だった。道化のような唐十郎に酔いしれる。悪魔の魂が体の中に潜りこんで来る。ハイミナールより効き目がすばやく、似非の度胸がめらめらと胸中に巣食う。全身が麻痺してくる、何でもできるような大きな気になる。そこに唐の唄声は官能的に甘くのしかかってくる。この新宿で堕ちて、アウトローになって、廃人になって生きて行けと唄はそそのかすのである。四谷シモンが着物姿で、ゆるく胸元をはだけて出てくる。メケメケの丸山明宏より美形である。蓮っ葉な女声で歌う。その歌は、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」から本歌取りしたものである。
♪をとうとよ 君死にたまふことなかれ
この世に生まれて かげろうの 短き日々の羽ばたきなれ
ど 女ひとりも泣かさずに
なんで男が華と散る
人生街道ひた駆ける
あたいの胸でゆであげた
ケツネうどんも食べないで♪
ロベスピエールは考えた。そうだ、女を泣かさなければ一人前の男とは云えない。もう成人式も終わっているというのに、輾転反側、李白のごとく未だ洞庭湖で遊んでいる。
その夜はゴールデン街の安酒屋で死ぬほど飲み、二丁目に河岸を変える。次の店に着くまで、火炎放射器のごとく吐きながら歩く。視界がおぼろげとなり、足に力が入らない、腰の骨は誰かに抜き取られたようで、自分の反吐の上に倒れ込みながら、「ケツネうどん、ケツネうどん」とうわ言のように叫び続けた。
朝起きると、新宿駅のごみ箱の中で寝ていた。きっと花園神社のケツネに化かされたのだろう。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)