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ハットをかざして 第73話

ハットをかざして 第73話

中洲次郎=文 やましたやすよし=イラスト


富士とスバル

いつかはアルファロメオ・ジュリエッタに乗るぞ、という友が中古のスバル360(富士重工業)を買った。フォルクスワーゲンをかぶと虫と云うならば、まさに「てんとう虫」である。

ドライブに行こうという事になった。

私はもともと登山が好きで、中高校時代はよく久住山に登っていた。長者原から棒原のガレ場を上がって、すがもりの小屋に着く。(今ではこの小屋も無くなり、無人の休憩所となっている。愛の鐘だけは昔通り場所を変えて残している)休憩の後、北千里ヶ浜に下り、右に曲がり一気に久住分れを目指す。分れの標識で汗をぬぐい、頂上を突く。遠くに阿蘇五岳の涅槃仏が中空に浮いている。尊いブッダの涅槃姿を見ながら弁当をつかう。受験勉強の憂さを忘れるひと時である。

大学でなまった暮らしが続いていた。もう一度山をやろうという気がもたげて来た。私の通う大学は、「虹芝寮」という谷川岳の麓に山小屋を持っていた。だが山岳部が中心で使っており、一般学生が使うには敷居が高すぎた。もちろん、冬は魔の山に変貌する谷川をやるだけの技量も体力もない。近郊に久住山と同じくらいの山はないかと調べると、箱根に三ッ峠というのがあった。標高約1786メートル、久住が1787メートル、ほぼ同高の山である。ドライブがてらここに登ろうと二人で決める。

都内を早朝に出て河口湖に向う。なぜか友と二人、♪「山のロザリア」が口をついて出る。男二人、がなるようにこの美しい曲を唄う。三ッ峠といっても峠ではない、ちゃんとした山である。今回は三ッ峠三山のうち開運山に登ろうというわけである。河口湖側の登山口にてんとう虫を置き、柔軟体操を入念にこなし登り始める。もちろん水筒は持っているが、当時は水を飲むとバテると指導され信じていた。今はめったやたらスポーツ飲料を飲むが、余程の渇きがないかぎりは飲まなかった。奇数合目で5分ほどの休憩をとる。休憩もリュックを下ろさず立ち休みである。座ることはケツを割るといわれ、登山美学にもとることだった。寡黙にズンズンと大股で登る。2時間強で頂上へ着いた。

着いたとたん、二人とも雄たけびのような歓声を挙げた。晩秋、天は高く、透き通るような淡いブルーの下、富士は全容を現して我々を待っていてくれた。頂上からの眺望はまさに富士を独り占めである。富士の左右の優美な長き裾野まで一望できる。阿蘇を観るなら久住山、富士を観るなら三ッ峠である。頂上は狭いので、しばらく下った平場で弁当をつかった。河口湖を眼下に、その手前に原っぱの駐車場が見える。ちいさなちいさなてんとう虫も双眼鏡で確認できた。

下山し、てんとう虫で河口湖から芦ノ湖方面に足を伸ばした。友が太宰を捩り「富士にはスバルはよく似合う」と悦に入っている。

その日は芦ノ湖畔の高台にある大学の「箱根寮」に投宿した。山々が日暮れて星の出る頃、ふと初恋の人を想い出した。黒い瞳の美しい娘だった。

中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)

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