花&風
私の学生時代、「女」という生き物は身の回りにケもなかった。それが誇りでもあった。連日、雀荘にこもり、JAZZ喫茶でとぐろを巻き、のんだくれ、土曜の夜は吉祥寺東映でオールナイトを観る。強烈に評価するのは「昭和残侠伝」シリーズである。とくにマキノ雅弘監督版。理由は高倉健の花田秀次郎と、池部良の風間重吉が凛々しくていいのである。功名も、金も、女も、一切求めていない美しい男が雪の太鼓橋を越えて乗り込んで行く。高倉はダンビラ、池部はドス、死ぬ気の男には色気がある。ケンさんの「唐獅子牡丹」が館内いっぱいに流れる。深夜ここに居るのは、地方出身の学生と、ヤクザと、ヤクザの連れの水商売のバシタばかりである。
「待ってました、ケンさん!」「ケンさん!」「ケンさん」「ケンさん!」「リョウ!」「リョウ!」の掛声が随所からスクリーンに掛かる。みな日ごろの暮らしのウラミツラミを、この二人の斬り込みに賭けているのである。
♪親にもらった大事な肌を 墨で汚して白刃の下で 積もり重ねた不孝の数を なんと詫びよかオフクロに 背中で泣いてる 唐獅子牡丹♪
(作詞作曲 水城一狼。映画挿入歌詞)
「ご一緒させて頂きます」の池部の錆びた声、男同士の相合傘、二人とも泥藍大島紬の着流しである。東映の暗がりで、昼間萎えていた気持ちがほむらの如く蘇ってくる。観客の男たちの肩が七三に怒ってくる。紫煙がいっせいに吹き上がる。前の席の背もたれに両足を上げているヤカラたちもいる。化粧の浮いたバシタたちは極道の肩に寄りかかっていく。東京には出てきたものの、いい賽の目が出ない連中が淋しい魂を寄せ合っている。
男の行く道は二つしかない、赤いオベベ(刑務所着)を着るか、白いオベベ(棺桶着)を着るか、である。母の深夜まで働く姿を思い浮かべながら、♪何と詫びようかオフクロに、に酔っていく。東京砂漠の辛さを傷ついた獣のように、東映という穴倉の中で心の傷を舐めている。学校はすでにドロップアウトの体たらくで、あしたが見えない。単位の取得は、その先の就職はどうなるのだろうか、不安がよぎる。孤独を無理やりストイシズムで誤魔化している。
花田(高倉)と風間(池部)は共に惚れた女を振り捨てて死出の旅である。男の憧憬の姿はこの「花&風」コンビにある。池部は息絶え、高倉は血みどろの深手、背中でただ唐獅子のみが空しく吼えている。拍手が鳴り終わるころに、館内の電気が点る。ヤクザたちはより肩を怒らせ、夜だというのにサングラスをかけ、女は邪魔だとばかりに大股で先に行く。学生たちも肩を怒らせ、目に角を立てている。全員けんか腰なのだが、といってガンを切り合うわけでもない。背中はどこか淋しげ気で、ナルシズムに浸りながら、夜明け前の吉祥寺の街に消えていく。
それにしても、いくら肩をいからせても、アイビールックで身を固めていることだけは仁侠映画と似合わなかった。今でもそれだけは忸怩としており、青き日の自己嫌悪である。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)