脱兎の母
母はいつも何処からともなく現れる。
すわ息子の一大事となると、疾風のように私の目の前に現れる。私の肺結核を知り、夜行の「富士」に飛び乗り上京してきた。
たくさんのお土産を両の腕では足りず、振り分け荷物にして東京駅に立っている。行き交う人の目、そんなことを母は何も気にしていない。私は、「ここは東京だぞ」と心の中で舌打ちをする。東京に染まったアイビーボーイの私、田舎姿丸出しの母、モーゼの杖のような自然薯の束を私は持つ。
「食欲は」「微熱はどうか」「体重はどうか」「血沈検査はどうか」「薬はちゃんと飲んでるか」と立て続けに質問するが、私はぶっきらぼうに曖昧に返事をする。これほどのお土産を何うするのかと語気強く訊くと、今日中に挨拶回りをして夕方の「富士」でまた帰ると云う。
まず阿佐ヶ谷の河北病院の院長先生から挨拶をしたいと云う。あの堂々たる体躯のジェントルマン先生がこの田舎者の母に会ってくれるもんだろうか。「院長先生は忙しいから無理かもね」と、私は冷たく云う。母は会えなくてもお土産だけでも置いていきたいと云う。間の悪いことに、院長は居た。広大な院長室に通された。院長は満面の笑みで母を迎える。夜行の旅をねぎらいながら、「大丈夫です。一年で治して見せましょう。就職に間に合うように。お母さん、ご安心なさいよ」と歯切れのいい東京弁で慰めてくれる。母はソファーから降りて、土下座せんばかりに小腰をまげてお辞儀をし続ける。
お土産の一包みは減ったが、まだ二包みある。今度は大学へ行くという。私のゼミのT教授にご挨拶をしたいと云う。ええ、あのモダンでダンディな教授に会わせるのか。それよりも、大学のキャンパスを母とこの荷物を持って歩く事のほうが恥ずかしい。「教授は人気の先生で講座の数が多い。いま突然行っても、講義中かもしれないよ」と冷たく云う。
教務部に行き、T教授の所在を訊くと、運の悪いことに在室中だった。教授棟に行くと、教授はドアを開けて廊下で待っていた。教授もまた満面の笑みで母の長旅をねぎらう。母はまた這いつきバッタのように腰をかがめて、ご迷惑をお掛けしますとお辞儀し続ける。
「お母さん、私も学生の頃、結核をやりました。私の頃はストマイはなく、治りが悪かったのですが、今は心配はないでしょう。一病息災ですよ」と母を慰める。教授は非常な食通で、田舎の土にまみれた自然薯をいたく喜んでくれた。
あと一包みは何うするのか。下宿の小母さんにご挨拶をすると云う。結核のことは伏せているよと云うと、保健所に届け出なきゃいけない病気だから、ちゃんと正直にお伝えしなきゃいけないと叱られる。
井の頭の下宿に着き、二階の自室に母を通す。すぐに小母さんがお茶を抱えて上がってきた。母が上京の意図を伝え、自然薯を差し出す。息子は発菌してないことを力説し、食費は上がってもいいから、精のつくものをとこれまた額を畳に擦り付ける。小母さんはにこやかに、ではお肉を増やしましょうと約束する。母は小母さんの今日は泊まっていかれたらと云う誘いを断り、また東京駅に向った。
以来何回も、何かあると母は「富士」号に飛び乗り、脱兎のように私の眼前に現れた。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)