東京流れもの
アパートから歩いて5分のところ、前進座の横門の前に銭湯があった。
当時は銭湯は三時始まりで、清潔な一番風呂へ行きたいのだが、その日は夕刻になった。子供の頃、母から銭湯の湯船の湯で顔を洗ってはならんと厳しく云われていた。悪い菌がいっぱい泳いでおり、目に入れば飛び出し風眼とか云う眼病になり、目が爛れると口を酸っぱくして言われた。潜って遊ぶなどという事はとんでもないことだった。
母の言いつけを守り、長じてからも湯船では決して顔を洗わなかった。私以外、客はまだまばらで、ひとり悠々と浸かっていると、見た顔の男が二人入ってきた。一人は浦山桐郎監督の代表作「私が棄てた女」で主演をはった河原崎長一郎、もう一人は子役時代から映画に出ている弟の健三である。こんな有名人と会えるとは、さすが前進座横のお風呂だと感心した。
前進座は劇場の裏手に広い敷地を持ち、劇団員とその家族は集団で暮らしていた。私はあまりにも「私が棄てた女」に感動しており、話しかけてみたかったが、なかなか傍に寄りがたい。客の少ない広い洗い場で、真横に座るのも気が引ける。映画では長一郎よりも、長一郎に棄てられた小林トシエの素朴で愚鈍な演技に感情移入した。二階の窓から落ちていく小林の姿は哀れの極みだった。長一郎は小林の肉体を慰みものにし、果ては棄てて乗り換えて生きていく。多くの男たちが似たような青春を過ごし、時に昔の女性を想いだし、悔恨の忸怩たる思いに捉われているのではないだろうか。浦山作品の中では、「キューポラのある街」(主演・吉永小百合)、「非行少女」(主演・和泉雅子)よりもこちらが優れていると思う。
二人はさっと洗い終えると、浸かりもせずに風呂場を出た。私もあわてて脱衣場に追いかける。下着を着けている最中に話しかけるのも野暮だと思い、表に出てからと考えた。二人が出ると、追って外に出た。外に一人、やはり女湯を出たばかりだろうか、色の白い可愛い女性が自前の風呂桶を持って立っていた。この人も見たことがある。一瞬気を取られたすきに、三人は目の前の横門の中に消えた。果たして誰だったか、よく時代劇に出ている女優さんだと思案しながら坂を下り、井の頭公園の中に戻った。
公園の北側の草地でホームレスたち6人ほどが車座になって酒盛りをやっていた。近寄ると、みんなで歌を唄っている。よく聴くと、竹越ひろ子の「東京流れもの」である。しみじみとそれぞれが低い声で唸っている。私の東京暮らしも、丁と出るか半と出るか分からない。彼らの唄い声を聴いていると、なんだか賽の目はどちらに出ても構わないような気もしてくる。それほどに安酒を嬉しそうに楽しそうに飲んでいた。
♪流れ流れて東京を そぞろ歩きは軟派でも 心にゃ硬派の血が通う♪
(作詞 永井ひろし)
ふと見上げると、すでに夕の満月が出ていた。先ほどの女優の顔が浮かんだ、そうだ確か伊藤栄子だった。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)