夜明けのスキャット
下宿を出て、初めての深い秋を迎えた。井の頭の木々は葉を落とし、幹の中に冬に備えるための力を貯めはじめた。アパート暮らしは自由で気楽だったが、その分侘しさ寂しさが募る。壁の薄い部屋で隣室の気配が微かに読み取れる。今日は女が遊びに来ているようだ。こちらの気配も悟られぬよう、ラジオを消した。
男はC大法学部の学生だ。ギターを爪弾いている。トア・エ・モアの「ある日突然」のように聴こえる。ギターの音が止まった。直ぐに女の嬌声がしたが、それも一瞬の事だった。息をひそめて、耳をそばだてる。アンリ・バルビュスの「地獄」の主人公の気分だ。ひたすら聞き耳を立てたが、以後は何も聞こえなかった。
ラジオを入れると、ちょうど由紀さおりの「夜明けのスキャット」が掛かった。隣室からの音はなく、森閑とした夜である。私は孤独の上にストーブもない。夜の寒気が身に沁みる。またくぐもったような嬌声が聴こえた。ラジオを消すわけにはいかない。私は「地獄」から抜け出すために、井の頭駅前の屋台へ向かった。二人を安心させるために、ドアをわざと大きな音で閉めた。
屋台には若い同棲中らしき学生がいた。銭湯帰りか、二人とも脇に桶を置いている。男は紺の、女は赤のお揃いの綿入れを着ている。女は髪をアップに巻き上げている。うなじの白さが目に沁みる。二人は無言で、出されたオデンもそのまま冷えているようだ。そばにいる私もその緊張感に圧迫されていく。心で、間の悪い時に入ったものだとツキの無さを嘆く。女が切れ切れに男に耳打ちをする。何を言っているかは皆目聞こえない。
「ごめん…」
と男の重い声がした。
女がまた急かすように、耳打ちをする。
「わるい…すまん…」
男はそう云うと、バツが悪そうに私を見た。私は聞こえてないふりで視線をそらす。盗み見ると、綿入れの下はピンクの御揃いのセーターを着ていた。熱燗を一合呑んだところで、御愛想をして早々に出た。
アパートまで歩いて五分、駅の裏手の階段を下りて、叢の道を神田川沿いに戻る。隣室の電気は点いていた。ドアを静かに開けて音のせぬように斜めに入る。入れ替わりに隣室のドアの開く音がした。流しの窓を透かして見ると、薄明りの下、女は長い髪をしている。男が夜道を送らないのはおかしいと思っていると、女は錆び止めを塗った朱の鉄の階段を音がせぬように二階へと上がっていった。ああ、端の部屋の美大生かと合点がいった。
翌日の昼下がり、公園の池の縁を散歩していると、ピンクのセーターの上にダッフルコートを羽織った男女が吉祥寺側から降りてきた。男は戦友のごとく、女の手を肩に回し、腰に手をやり、しっかり抱え込んでいる。女の顔色は蒼く、足取りはフラフラと覚束なかった。昨夜の屋台の二人だった。
二人の時は止まっているように見えた。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)