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ハットをかざして 第112話

ハットをかざして 第112話

中洲次郎=文 やましたやすよし=イラスト


社長面接が終わり、人事課長から社内図書館に案内された。ここで、入社誓約書へサインをとのことである。署名して渡すと、字がもう一つと書き直すように求められる。こんどは息を止めて丁寧に書いたが、
「あまり変わらないなぁ…まあ、いいか」
と不承不承受理された。

「中洲さん、うちは肩書で呼ばない会社なので、K課長はやめてください。Kさんで結構です。皆さん、どんな上司にでも『さん』でお願いします」と云う。リベラルな社風を感じた。

往来に出て、公衆電話を捜す。あるだけの10円玉を用意して母に電話を入れる。
「通ったよ、入社誓約書も書いた」
「ああ、良かった。さっきまで貴船さんで、お百度参りをしちょったんよ。おめでとう」
「ありがとう、親父によろしく云っといて」
照れもあり、すげなく切った。

錦町から路地に入ると、「スマイル」という小さなJAZZ喫茶があった。剥離しかけた白ラッカーの乾いたドアを開けると、30歳半ばくらいか、黒澤明監督の「生きる」に出ていた小田切みき風のママがカウンターの中に居た。壁にはジャン・ギャバンが好きなのか、「ペペ・ル・モコ望郷」や「ヘッドライト」のポスターが貼られていた。

アイリッシュ・コーヒーを頼む。目をカウンター後のレコード棚に転じると、ビリー・ホリデーのジャケットが覗いていた。

「ビリーのサマー・タイムを掛けてもらっていいですか」

ママはちょっと微笑んでLPを取り出し、ターンテーブルに載せる。丁寧に埃除けスプレーを吹きかける。セントルイス・ブルース調のイントロが奏でだす。親孝行はしたが、髪を切り、鬚を剃り、ネクタイをし、何か大切なものを売り渡した気分に落ち込んだ。ビリーは気怠い、寂しさが襲ってきた。これでいいのか、この会社で中途半端に身をそがれ、毎日ネクタイをして生きていくのか。安心感が虚脱に変わり、天邪鬼なことを思った。

「何か寂しいことでも、あったの」
「うん、いや、そこの会社に決まったんです」
「あら、おめでたいわね。お祝いに、一杯、おごるわ」

棚からメーカーズ・マークを取り出し、ショット・グラスに注いでくれた。バーボンの甘い香りが漂う。ジャン・ギャバン風に一気に煽る。また、注いでくれた。

「ジャニスのサマータイムもあるわよ」
と、J・ジョップリンのLPを取り出す。

トランペットがイントロを奏でだす。ギターが泣き出す。ジャニスが唄いだす。地の底から這い上がってくる声だ。魂が唄っている。激しく強く、何かに怒っている。アメリカの怨歌だ。バーボンが利いてきた。自由か、不自由か、自堕落か、もっともっと堕ちていくつもりだった。卑怯にも最後の最後で寝返った。

♪ノーノーノーノーノー ドンクライ♪
ついに私のサマータイム(学生生活)も終わるのだ。
「もっと、ボヤボヤしていたかったんですよ」
「あら、ボヤボヤしてたら、偉くなっちゃうわよ」
ママはもう一杯注いでくれた。

中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)

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