就職が決まり、弛緩した。
髪を切り、鬚を落とし、社会に迎合し、まるで「『いちご白書』をもう一度」の歌詞のごとく堕落した。忸怩とした気持ちで、また雀荘に顔を出し稼いだ。稼いだと云っても学生仲間の安いレートであり高が知れている。それでも仕送り前一週間の金欠時には大いに助かった。アパートのコタツ台の上に毛布を敷き、牌を広げ、二六時中訳もなく触っていた。感を磨くためである。指は無意識のうちに爆弾積み、元禄積みを仕込んでいた。
その日も朝から深夜まで打って、小金を財布に詰めて雀荘を出た。吉祥寺駅方向に本町界隈をブラブラ歩いていると、面白いお店が開店していた。看板に、「武蔵野火薬庫ぐゎらん堂」とあった。旭日旗のようなデザインで横尾忠則調の色使いである。タイポグラフィーはサイケ調、「火薬庫」という過激なコピーが気にいって、入ってみることにした。
1970年の秋である。全共闘も四分五裂し、反代々木系の跳梁跋扈となっていた。ノンセクトは命がけの内ゲバばかり、大菩薩峠は全員逮捕され、よど号の連中は北朝鮮へ行ってしまった。右側の細い木製の階段を上がると、田舎の小学校の教室のような店だ。長髪で、パンタロンに短めのニットベスト姿の連中が屯っていた。ファッションでいえばJUNか。皆、ギターケースを持っている。どうもフォーク指向の連中らしい。壁には林静一の作品らしい大正ロマン風の女の絵が貼られている。入った左奥にカウンターがあり、そこでバーボンのハイボールを注文した。カウンターの女は太田雅子(日活)似の眼の鋭い、男を寄せ付けないお顔立ちをしていた。
フォークの店に野良猫ロックの女は似つかわしくなかった。当時は、捨てばち怨歌の時代に入っていた。藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」、北原ミレイの「ざんげの値打もない」が立て続けにヒットしていた。みんな不幸せな猫でありたかった。不幸な自分に酔っていた。不幸ナルシズムとでも云おうか。幸せ、平凡、普通、つましい俸給生活は下の下だった。儚さ、やるせなさ、薄幸、同棲、駆け落ち、自殺、心中、学生は親の掌(たなごころ)の上で、生きると云うことも、食べていくと云うことも、まだ何にも判っていなかった。
カウンターの女はチェーンスモーカーらしく、強いゴロワーズをずっとふかしていた。我々団塊の女たちは、ロングヘアーをセンター分けにして、いつもプカプカと吸えもしないタバコをふかしていた。
やおら、PAのセッティングが出来たのか、まるでゴルゴダの丘のキリストのような男が歌を唄い出した。抒情的なエレジーでいい歌だった。男は唄いながらカウンターの女にずっとアイコンタクトをしていた。彼女を口説くように唄っていた。女も目を外さなかった。バーボンをストレートのダブルに変え、チェイサーは要らないと告げた。短髪でVANに身を固めた人間にはそぐわない店だった。
46年も前の話、この店、もう吉祥寺に無いだろうなぁ…。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)