1970年の暮れだった。突然、白角封筒の結婚招待状が来た。
高校時代、何度かデートをした同級生だった。故郷を出てから、1、2度文通をしたが、次第に疎遠になっていった。私の方から返事を出さなくなっていった気がする。彼女は北九州の女子短大へ行き、去る者日々に疎しだった。
高校二年の時、校庭でのフォークダンスで手をつないだ時に手紙をもらった。「つきあってほしい。K子」だった。私の意中の女子ではなかったが、つきあってほしいと云うのを拒む理由もなかった。どこか鬱陶しい気もしたが、男はバカだからすぐに優越感に変わった。いつも明屋書店で夕刻待ち合わせる。
私が選ぶ小説に非常な興味を持っていた。持っている本を何を読んでいるのかと取りあげられ、なかなか返してもらえず、追いかけて取り返すことが多かった。高校時代は吉行淳之介ばかり読んでいた。現役では吉行が一番の作家だと彼を信奉していた。文体が研ぎ澄まされており、語彙の選び方、形容詞の作りが美しかった。ストーリーも都会の男女のことで、初期の鳩の街を舞台にした娼婦物も悪くなかったが、『砂の上の植物群』からが傑出して佳くなった。
彼女とは喫茶店『胡桃』にもよく行きコーヒーを飲んだ。彼女はまったくのブラック派で砂糖も入れなきゃ、エバミルクも浮かべない。私はスプーン2杯の砂糖を入れ、エバも厚くたっぷり浮かべた。大人ぶる男っぽい女の子だった。私くらいの面差しと外見の男のどこがいいのだろうか、自分でも不思議だった。いつの間にか彼女も吉行を読むようになっていた。
この人、女に意地悪で、女嫌いね」と感想を云う、洞察している気がした。クラスが違い、教室の階も違うから学校であまり会うことはなかったが、彼女の提灯持ちの女子がスーッと近づいてきて、上手に周囲に分からぬよう私に紙片を渡していった。
塾を休んで夜のデートもした。山国川の河原で夏の星座や、秋の星座を二人して見ていた。
夏の大三角形を教え、秋の四辺形も教えた。
接触頻度があがるにつれて、行き帰り横に付きまとい、女房気取りとなり、だんだん遠慮が無くなっていった。私は徐々に前を向いて彼女から後ずさりを始めた。進学先が東京と小倉とに分れた。それが別れだった。
招待状を見つめた。春二月が挙式だと印字されている。添え書きがあり、万年筆の丁寧な字で「ぜひ出席してください。待っています。K子」とある。なぜもう縁も何もない私を呼ぶのだろうか。無しのつぶての恨みか…。好い夫を見せつけたいのか…。出欠ハガキに「おめでとうございます。幸せになってください。遠く東京の空の下より祈っています。次郎」それだけを書いた。東京に来て恋人もできない男のせめても意地だった。
なんだか急に寂しくなった。逃した鯛は大きい気がした。突然、新郎への嫉妬心が胸で膨張した。
ハモニカ横丁(吉祥寺)で飲もうと遮二無二に外へ出た。雪が降り始めていた。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)