18歳で上京し、最初に観た映画が「男と女」(クロード・ルルーシュ監督)だった。お金を出して観たのではなく、東京放送TBSラジオの試写会に応募して当たったのだ。当日、井の頭線で渋谷に出て、地下鉄銀座線で赤坂見附まで行き、TBSホールを訊ね訊ねて一ツ木通りの会場に着いた。まだ上京一ヵ月で西も東も分からなかった。地下鉄に乗ることも初体験だった。
試写会の司会が大橋巨泉で、51〜52年前はまだこういう仕事もしていた。映画の内容は、共に最愛の連れ合いを亡くした子持ちのシングルママとシングルパパの恋愛だった。ママ役にアヌーク・エーメ、少し怖い顔をした美人だった。パパ役にジャン・ルイ・トランティニアン、知的な顔の二枚目だった。映画の中のトランティニアンはカーレーサーである。モンテカルロ・ラリーに優勝して、アヌーク逢いたさにモンテカルロからパリ、そして港町ドービル(フランスの高級避暑地)まで一気に走りかえる。彼女の心を射止めたかに見えたが、彼女はまだ撮影中に事故死した夫のことを忘れていなかった。彼女はホテルで別れを告げ、パリには別々に帰るという。トランティニアンは近くの駅に彼女を送る。諦めきれないトランティニアンは乗換えの駅まで車を飛ばす。先に着き乗換駅のホームで彼女を待つ。別れたことを後悔していたアヌークは彼を目にすると、彼への思いが吹きこぼれ、彼の胸に飛び込む。やっと夫のことをふっきった瞬間だった。音楽はフランシス・レイ、♪ラララ ラバダバダ ラバダバダは 世界中でヒットした。スキャットの時代が始まった。まだ29歳のルルーシュ監督はこの作品でカンヌ映画祭のパルムドールを奪り、若くして押しも押されもせぬ世界の一流監督入りをした。
トランティニアンは実際に俳優兼カーレーサーでもあった。この映画から、日本中、カーレーシングブームとなった。当時、平凡パンチや週刊プレイボーイで、レーサーたちが特集され始めていた。式場壮吉や高橋国光を筆頭に、福沢幸雄(福沢諭吉のひ孫)、生沢徹(洋画家生沢朗の息子)、そして私と同じ経済学部の同級生風戸裕(日本電子社長の次男)、大学の学生食堂に彼やフォーセインツ(ヒット曲「小さな日記」)の連中が居れば、女子たちは彼らを十重二十重に取り巻いた。彼らはみんな外車族で、連れている女性もオシャレなファッションを身にまとい、美しい脚で闊歩していた。そう、若き日の吉村真理、淡路恵子といったタイプで棲む世界が違う人たちだった。
この試写会から2年後、福沢幸雄はヤマハのテストコースで事故死した。「夜のヒットスタジオ」で小川知子が号泣しながら歌っていたことを思い出す。風戸も1974年6月、富士スピードウェイで巻き込まれ事故で命を絶った。湘南族のような育ちの良い顔をした、目がはにかむハンサム・ボーイだった。今でも「男と女」のスキャットを聴くと彼のことを思い出す。もう44年になる。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)