本サイトはプロモーションが含まれています。

長谷川法世のはかた宣言9・北家良房

長谷川法世のはかた宣言9・北家良房


貞観という時代は、清く和すと書く清和(せいわ)帝の御世ですが、ずっとつづいてきた権力争いの総仕上げの時期でした。最後に勝ち誇ったのは藤原北家(ほっけ)の良房(よしふさ)です。その策謀人生はこんなぐあいでした。

①承和(じょうわ)の変*を起こし、北家の血筋ではない皇太子恒貞親王(つねさだしんのう)を廃位させ、甥の道康(みちやす)親王を皇太子に立てた。
②8年後、道康親王が文徳(もんとく)帝として即位すると、文徳帝と娘明子(あきこ)との間に生まれた孫の惟仁(これひと)親王を生後9か月!で皇太子にした。すでに何人も親王がいたのにです。
③7年後、人臣(帝の家来)初の太政大臣*になる。すると翌年文徳帝は突然!の病で崩御。惟仁親王がわずか9歳!で清和帝として即位。史上初の幼帝。良房は帝の外祖父として政治の実権をがっちり握った。
④さらに8年後、人臣初の摂政(せっしょう*)となり伴善男(とものよしお)らを放火犯人にした。(応天門の変)

そうして4年後、藤原元利万侶の謀(はかりごと)。
摂政太上大臣(せっしょうだじょうだいじん)良房の弟である良相(よしすけ*)は右大臣でしたが、この弟くんったらばかなことに応天門炎上のとき大納言伴善男(とものよしお)といっしょになって、放火犯は左大臣の源信(みなもとのまこと*)だと清和帝にいいつけちゃいました。
信が失脚すれば良相は左大臣、善男は右大臣に昇格できるんですね。良相は善男の口車に乗せられたのか、それとも実は兄の地位をもうかがっていたのか。どっちにしろ兄の良房は激怒したに違いありません。

話題の藤原元利万侶(がんりまろ)。実は以前、弟くん良相のもとで働いていました。天安2年(858)良相は唐から帰朝した僧円珍(えんちん*)のもとへ元利万侶を慰問の使者にたてています。

さて、元利万侶は応天門の変の翌年(867)に大宰府に赴任しますが、実は右少弁(うしょうべん)という役目だった貞観5年(863)にも大宰少弐(だざいのしょうに)に任命されているんです。ところがわずか6日後に右少弁にもどったんです。

元利万侶の位は従五位下(じゅごいのげ)でほんとは少弐が相等官。右少弁は二階上位の正五位下(しょうごいのげ)の役目なんです。右少弁から少弐への格下げは、なにか失敗があったのかも。6日で右少弁に戻れたのは良相に泣きついたんでしょうか。それとも良相が唐物の獲得に元利万侶を大宰府にやろうとしたのを良房がとめたのかな。

良相は応天門の変では良房の意に反し、そこに元利万侶もかんでいたとしたら。

応天門事件の翌年元利万侶は大宰府に左遷。9か月後に良相は死亡。元利万侶が密貿易に手を出して捕まるのはその三年後でした。
良房は他氏や同族との権力争いに加え、弟くんとの相克にも苦慮したことでしょう。

*承和の変…(承和9・842)恒貞親王に近い伴健 岑・橘逸勢らを謀反の罪に陥れた。
*太上大臣…右大臣から左大臣源信を飛び越えての太上大臣。良房は嵯峨帝の登用によって力を得たので嵯峨帝の皇子である信を蹴落としはしなかったのだろう。
*摂政は帝が幼いときの後見役、関白は帝が成人してからの後見役。
*良相…「よしみ」とも読む。学識があり藤原氏の中の貧者救済にもつくした。
*源信…嵯峨帝の皇子だが源姓を賜って臣下となった。源氏の起こり。桓武帝が皇室の財政負担軽減のため皇子皇女に平姓を与えて臣籍に下し、その後もつづいた。清和帝の皇子の流は清和源氏で源頼朝がいる。ライバル平清盛は桓武帝の流で桓武平氏。
*円珍…智証大師。母親は佐伯氏である空海の姪。渡唐前に1年間大宰府に滞在。そのとき漢詩で鴻臚北館を詠んでいる

関連するキーワード


長谷川法世のはかた宣言

最新の投稿


発行元:株式会社西日本新聞社 ※西日本新聞社の企業情報はこちら