
「文化15年(1818)寅年、正月元日朝、日輪二躰出て其(その)間凡(およそ)二三十間と見ゆ」
前回引用した宗像の「古野家家事記録」の記事です。元旦に太陽が4~50mの間にふたつ見えたというんです。調べると「幻日」という大気光学現象のようです。雲の中に六角状の氷の結晶が水平に浮かぶとき、プリズム作用で太陽がもう1個見えるんですね。
宗像で元旦の幻日が出現した46年後、明治の太陽・川上音二郎が博多に誕生しました。元治元年1月1日です(ほんとは文久4年)。いまから150年前のことでありました。ですから、今年は、はい、音二郎生誕150年の年なんです(元気よく!!)。
新しい民話…昔、博多の紺屋専蔵さんが名人といわれた鼓を打ち、仁和加に興じていると、維新の川上から大きな桃がどんぶらこと流れてきました。ごりょんさんのヒサさんが博多包丁で割ると、中から元気な音二郎が誕生。
若者に育った音二郎は、オッペケペーを唄いながら明治ヶ島へ鬼退治に出かけました。お供は自由と民権と新演劇でした。明治ヶ島の鬼たちはいっぺんで音二郎が好きになり、貞奴をお嫁さんにくれました。音二郎は貞奴と一緒に世界を廻り、たくさんの宝物をもって意気揚々と凱旋したのでした。メデタシメデタシ。
以上は音さんについての私のイメージなんですが、世間には音さんをほら吹き・山師・興行師などという人もいました。
たとえば音さんは、「内閣総理は実に予が望む所也」(東京日日明治25年6月5日付)といっています。はい、音さんは6年後実際に衆議院の選挙に立候補して四民平等の世の中、だれでも国会議員になり総理大臣になれるということを実践してみせたのでした。残念ながら落選しましたけど。
それから、音さんはつぎつぎと新演劇を繰り出しました。二世左団次と組んだ革新興行もプロデュースしました。興行師といわれた由縁です。また、外国から帰って面白おかしく土産話をすると、周囲は洋行経験のない人ばかりだから、ホラ話に聞こえるんですね。音さんは博多の生まれです。冗談軽口は日常なんですが、東京人には理解できなかったでしょうね。
新派を大成させた喜多村緑郎さんは、音さんとは演劇観でそりが合いませんでした。それでも、45回忌に建てられた沖濱稲荷の顕彰碑には、「新演劇祖川上音二郎誕生碑 喜多村緑郎書」と揮毫。当時の記録では喜んで引き受けたそうです。音さんがいたればこそ、新派・新国劇・新劇・宝塚歌劇・児童劇、つまりは近現代劇ぜ~んぶが生まれたというのが事実です。喜多村さんもそのことは認めていたんですね。
幻日を英語ではmock sun、まがい物の太陽とよびます。音さんのこれまでの評価は、幻日のようなものでした。生誕150年の今年こそ、音さんが本物の太陽であったことを博多から全国に発信する記念的な年としたいものです。