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長谷川法世のはかた宣言23・商家の子

長谷川法世のはかた宣言23・商家の子


音さんは、元治元年(1864)*1)生まれ。今年は生誕150年です。

藍玉と廻船問屋の二男でした。船で四国の藍玉を仕入れて壱岐だか対馬だかへ届け、その代金を芸者遊びで全部使い込んでしまったという逸話もあります。

音さんは13歳で家出をして上京、17歳ころ帰博して巡査になったそうです。

巡査ははじめ邏卒と呼ばれ、東京府が明治4年に3000人を募集しました。それまで各藩に供出させた兵士に警備させていたけれど、廃藩置県で武家が使えなくなって、邏卒を雇うことにしたのです。これが日本の近代警察制度の始まりで、巡査とは最新の職業の一つだったといえるんですね。音さんの巡査姿の記念写真は、ちょっと気取って誇らしげです。

けれど音さんは博多での巡査勤務をなぜかすぐにやめて、京都の巡査になりました。その理由を、商家の子が勤め人になるということから考えてみましょうか。

江戸時代、給人*2)とも言われた武士とその奉公人は勤め人ですね。博多は秀吉の朱印状で、給人住むべからずという「町人だけの町」でしたから、住民は、工・商業者とその弟子や奉公人でした。

明治になるといろんな職業が生れ、勤め人も増えました。けれど、博多の商家の子である音さんが奉公に出るということは、どういうことだったでしょう。

「家がしまえたけん、奉公人になっとる」

そういう陰の声もあったのではないでしょうか。封建時代、家業がしっかりしていれば、商家の子は修行奉公に出される以外、勤め人つまりサラリーマンになることは考えられませんでした。

巡査になった音さんは、石堂橋近くの交番にいたそうです。博多は東西を石堂川と那珂川にはさまれた土地で、江戸時代には東西に門があって、出入りをチェックされました。福岡側の中島橋際の赤煉瓦文化館あたりには枡形門があって門兵がおり、東側の石堂橋の門*3)には町雇いの門番がいて夜間は閉門されたはずです。

千代松原の芝居や水茶屋遊びの帰り、「門番さえおらんなら、まあだ楽しゅう遊ぶとに」と憎まれ口を叩きながら帰っていく博多町人もいたでしょう。

音さんは石堂橋近くの交番勤務。それは当時のひとびとの感覚では門番であり、また巡査は目明しのイメージだったのではないでしょうか。

音さんは家業不振で勤めを余儀なくされました。それでも巡査という最新の職業を択んだのですが、博多ではどうにも気詰まりで、京都へ移ったのではないかとも思われます。

*1)元治元年:新撰組の池田屋襲撃・禁門の変・第一次長州討伐・4国艦隊下関砲撃占拠・高杉晋作ら馬関砲撃などがつづく騒然とした年だった。

*2)給人:武士また官人は領主からサラリーとして禄米を支給された。給人という言葉は、幕末までには武家の雇う中間などの事になっていたかもしれない。江戸時代の農工商層は、農民は農産品、工人は工芸品、商人は商いで生活した。貴族・武家・寺社家以外の大多数の層はほとんど今でいう自営業だった。

*3)石堂橋の門:福岡城の門とされていた古い写真を、福岡市博物館が昨年石堂橋の門と確定した。廃藩置県まで門番がいたかどうかは未確認。

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