
「当人がもとの通りでいいというのに延岡下くんだりまで落ちさせるとはどういう了見だろう。太宰権帥だざいごんのそつでさえ博多近辺で落ちついたものだ*1」
夏目漱石の「坊っちゃん」。うらなり先生が赤シャツの策略で宮崎に転勤するのを知って坊っちゃんが憤慨する場面。「博多」が出ている。ほかでは「赤手拭*2」も出ていて、山笠の手拭ではないけどうれしい。「愚迂多良童子ぐうたらどうじ*3」ってのもある。川上音二郎より3歳年下の漱石先生、自由童子をもじったかも。いやはや、なんでも博多中心で。
「商人が頭ばかり下げて、狡い事をやめない*4」。博多は商人の町だよ、漱石さんたら商人を馬鹿にしてる。「野蛮なところだ。大森くらいな漁村だ、馬鹿にしてらあ*5」とは、四国に到着した坊っちゃんの感想。貝塚の大森も、四国の中学生のことも、「延岡下くんだり」も地方見下し江戸目線・中央目線だ。ややや、大漱石批判になってらあ。
ま、封建的な時代の作品だからな。天ハ人ノ上ニ人ヲツクラズと平等を説いた福沢諭吉さんだって、「福翁自伝」で士族以下は見下しているし。昔の話だし。
いや、リニアモーターカーの実験線が宮崎から山梨へ移設されたのは昭和62年。「鶏小屋と豚小屋の間を走るのは格調が低い*6」という中央目線の理由だった。
坊っちゃんの初読は高校のとき。その視点が気になって漱石さんを読み進めなかった。映画なんかの江戸東京目線も気になりはじめていた。東京が東京ばっかり発信するなら博多が博多を発信してもいいだろうって、それが「博多っ子純情」となり、いまも「はかた宣言」。これはこれ、博多以外みんな見下しという危うさもあり、自戒自戒。
実は、江戸生れの漱石さん、東大教授を辞め小説家になったのは「藩閥」がいやでということらしく、博士号も蹴ったとか。江戸の町名主まちなぬしだった漱石さんの父親は、維新後は警吏になっていたのが明治17年の官吏非職条令で失職。学生だった漱石さんは苦労したんだとか。
平岡敏夫「佐幕派の文学 漱石の気骨から詩篇まで」(出版社/おうふう)で知って、それで坊っちゃんを再読。漱石さんちだけでなく、維新政府に雇用された旧幕吏も多く結局はリストラ。日本近代文学はそうした窮乏の佐幕派から生れたんだそうだ。
北村透谷、山路愛山、尾崎紅葉、幸田露伴、樋口一葉、国木田独歩、東海散士*7、石川啄木などが佐幕派なんだそうな。
「立身出世」の「出世」を望めない人のなかに、「立身」というか「自己実現」を文学でという人があった、ということなのかな。
*1坊っちゃん…岩波文庫第77刷改版97頁(以下同書)、解説平岡敏夫。初出は1906年(明39)「ホトトギス」。
*2赤手拭…34頁
*3愚迂多良童子…116頁。かつて酒呑童子などの英雄譚、また四書童子訓、和俗童子訓(貝原益軒)など少年向け教育書があった。自由童子という大衆に身近な名乗りは民権啓蒙のためだろう。また漱石の俳号は愚陀佛。
*4商人が…115頁
*5野蛮な…118頁
*6リニア…Wikipedia 「リニア実験線」140310
*7東海散士…本名柴四朗。会津白虎隊の生き残り。渡米後政治小説「佳人之奇遇」を発表、のち政治家。弟は柴五郎。「ある明治人の記録—会津人柴五郎の遺書」(石光真人編、中公新書)は涙と笑いと感動の、明治維新前後の佐幕派を知る好著。
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