ネットで検索した「近世近代博多における職住近接と地縁的結合の変容に関する研究※1 」(1991)は、論文なのであくまで冷静な記述に終始する。けれど、博多の者にとって平静ではいられない驚くべき結論となっている。引用してみる。
《近世の地縁的結合に関しては、現在も博多の地域コミュニティを特徴づける祭礼組織である「流」について、福岡城下の建設期である黒田家時代に成立し、18世紀中頃までに祭礼組織として定着すると同時に両側町の集合体である「町組」へと整備されたこと、また月行事の当番町制の導入によって、18世紀後期以降、祭礼と同様に町間の序列を明確にした行政機構の末端としても位置づけられていったことを(この論文では:法注)明らかにした》
これは博多にとっては一大事だ。「流」が「福岡城下の建設の時期」にできたなんて!
流という町々の連合組織は、天正15年6月の「太閤町割」でできたというのが定説。「博多郷土史事典※2 」もそう書いている。
《秀吉は天正十五年(一五八七)六月十日に町を見分し、十一日に宗湛、宗室の意見もとりいれて、石堂川を東の限度、那珂川を西の限度とし、矢倉門のくぼ地を南、大浜を北の限度とし、およそ十町四角の町割とする。いわゆる四水四応四神相応の都市計画をたて、博多を七条の袈裟になぞらえ、七小路、七番、七口、七堂、七流、七厨子、七観音にわけ、七七四九願をあらわし、博多を一山の七堂伽藍に見立てた。…最初に縄張りをしたところを一小路(のちに市小路)とし、その東側を東町(宗室町ともいった)、西側を西町(宗湛町ともいった)。一小路を含む呉服町流を中心に東は東町流、西は西町流、そのまた西を土居町流と須崎流とした。この五つの南北の線と東西に走る石堂流、魚町流が町割の骨組みとなった》
七堂伽藍とは国語辞典によれば、寺院として備えるべき7つの建物。またその完備した寺院。塔・金堂・講堂・鐘楼・経蔵・僧坊・食堂などの七堂を指し、宗派によって7種は異なるそうだ。
論文「近世近代博多の|」では、流の成立が黒田家時代であると結論づけられている。これはとっても新説だ。といっても、この論文は1991年の発表なので、36年前のやや古い新説だけど。
論文では筑前国続風土記・博多津要録などこれまでの資料に加え、櫛田神社文書の「(博多町絵図)※3」「土居流記録」など、(1991年当時で)新出の史料もくわえた分析の結果だとしている。
この論文にしたがえば、流の成立は慶長6年(1601)からの福岡城建設期なので、定説である天正15年6月より14年以上あと。また、流の定着は18世紀中頃というから、ざっと160年も時期があとになる。では「七堂伽藍の七流」は何をもってして七流なのか?
そしてさらに博多町割が定説より半年前、天正14年の冬であると書く「豊前覚書」の存在も浮かび上がる。
*1)※1「近世近代博多における―」…(一財)住総研の研究№1309、1991。主査伊藤裕久、委員菊池成朋・箕浦永子・伊藤瑞季。
*2)※2「博多郷土史事典」…井上精三・葦書房・S62
*3)※3「(博多町絵図)」…実物に表題が無いため仮称を( )にいれてある。
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