「若者共法外」は、若者たちの掟破りってこと。実は「年始水掛けの儀」(1759)より早く、福岡と博多で若者どもが法外をやらかしてね。おなじ『博多津要録』の記録だけど、年始じゃなくて婚礼のときの騒ぎ※1だったからあとまわしになった。福岡は年始水掛け禁令の12年前、博多は8年前だった。
福岡の騒ぎには、年始水掛の儀と同じような、事前の禁令が20日前にだされていた。現代意訳でご紹介(誤訳御免)。
①事前の禁令
〈両市中で婚礼の際、若者共がみんなで石つぶて※2などを打つ法外の事があり、不届きだ、今後そんなことをしたら、幼年の者※3でも容赦なく曲事申しつける、ふだんから厳しく町々へ申付けておくべきこと、もし違反者があれば、関係の年寄・組頭まで落ち度申しつける、津中のはしばしまで触れをまわすこと〉(要録:巻17 | 23)
右は奉行所から両市中宛※4の写し。〈石つぶて〉とはびっくりだよねえ。〈幼年の者〉ってのも信じられん、この事前の禁令を、20日後、福岡の若者たちは破った。過激な騒ぎなのでWARNING!
②福岡の騒ぎ
延享4年[1747]5月19日〈福岡本町両替所、ならびに湊町の木屋次郎八方の婚礼で、若者が石つぶてで表の戸を打ち破り、そのうえ狼藉をはたらいたので、頭取らしいものを牢に入れた、しかしすぐに放免した、再犯したら年寄・組頭まで越度※5を申しつけるぞときつく言い渡した、また、壁を疵つけ瓦を突き落とした者があり、判明すればすぐに罰を加える、とのことだ〉(巻17 | 27)
福岡の若者もワイルドだったんだなあ。4年後に博多も負けんぞーってなもんで、やんちゃしている。
③博多の騒ぎ
寛延4年[1751]9月〈川端町中・紅屋※6徳兵衛方の婚礼で、川端町上・中両町の若者中を残らず徳兵衛方へ招いたが、意趣でもあったのか、座敷へ出したうつわ類や建具まわり、畳にいたるまでことごとく切り破り、疵付け、川流し、言語道断筆紙ママに尽くしがたい、法外な仕方は近来珍しい※7ことだった、徳兵衛は奉行所へ訴え出た。
町中も寄りあって、内々にすまそうということになったが、すでにお上は詮議にはいっていたので、右両町の年寄・組頭を不裁判にという願いはとどかず、川端町上・中の年寄2名は10月29日に入牢、両町の若者8人は同日残らず入牢、川端町上・中の組頭3人は同日に釘付けを命じられた、但し、右年寄両人は11月6日に、若者中8人は同21日に、釘付け※8の組頭3人は同10日に許された〉(巻19―74)
ね、WARNING!な内容でしょ。近ごろの荒れる成人式に通じる若者のエネルギー、かな。
にしても、要録の編さん者原田伊右衛門は、福岡・博多の騒ぎをなかよく一件づつ記録したけど、博多は年寄・組頭まで牢に入れられて罰が重すぎる、といいたげだなあ。
※1)婚礼の時の騒ぎ…嫁入り当夜のさまざまな悪態乱暴が(略)樽コロバシ・酒釣りなどと称して空樽を持ち込み、酒を貰うことなどは至極く善良な方で、石地蔵や舟を担ぎこみ、はては墓石を持ち込み、石を投げ、垣を破って、酒を強要する類のことは決して珍しくなかった。(略)近世の諸都市には、新婚者に対する水祝いがさかんにおこなわれていた。(「民俗学辞典」婿いじめの項より)
※2)石つぶて…石合戦・印地(いんじ)・飛礫(つぶて)。記録の初見は平安末期『百錬抄』嘉祥2年(1107)5月23日条「検非違使ら京中飛礫を制止す、此の春より此の事発起す」。『中右記』同日条「辻毎に飛礫し互いに殺害に及ぶ」。(横井清『中世民衆の生活文化・上』講談社より)
※3)幼年の者…若者組は14~5歳からが一般的。幼年の者とはそれ以下か。又は若者組内の若年者か。現在の山笠では中学生から若手と呼ぶのが一般的。
※4)両市中宛…御町役所から樋口祐内・原田伊右衛門(要録編さん者)宛。両市中之者、ではじまる文面から両市中宛。樋口祐内は福岡の行司と考えるが未確認。
※5)越度…律令時代は関所破りの意。転じて度を越す意に。
※6)紅屋…紅粉:博多町所々にて製す。その色もっともよし(筑前国続風土記・巻29土産考)。『石城異聞』には紅屋〇〇と数名の年行司名が書かれている。
※7)近来珍しい…「珍しい」とは伊右衛門さん、若者の掟破りを内心では容認かも。
※8)釘付け…戸〆(とじめ)。武士・僧ならば閉門・逼塞・遠慮。町人・農民は門は禁止なので、表の戸を閉ざした。
福岡の騒ぎには、年始水掛の儀と同じような、事前の禁令が20日前にだされていた。現代意訳でご紹介(誤訳御免)。
①事前の禁令
〈両市中で婚礼の際、若者共がみんなで石つぶて※2などを打つ法外の事があり、不届きだ、今後そんなことをしたら、幼年の者※3でも容赦なく曲事申しつける、ふだんから厳しく町々へ申付けておくべきこと、もし違反者があれば、関係の年寄・組頭まで落ち度申しつける、津中のはしばしまで触れをまわすこと〉(要録:巻17 | 23)
右は奉行所から両市中宛※4の写し。〈石つぶて〉とはびっくりだよねえ。〈幼年の者〉ってのも信じられん、この事前の禁令を、20日後、福岡の若者たちは破った。過激な騒ぎなのでWARNING!
②福岡の騒ぎ
延享4年[1747]5月19日〈福岡本町両替所、ならびに湊町の木屋次郎八方の婚礼で、若者が石つぶてで表の戸を打ち破り、そのうえ狼藉をはたらいたので、頭取らしいものを牢に入れた、しかしすぐに放免した、再犯したら年寄・組頭まで越度※5を申しつけるぞときつく言い渡した、また、壁を疵つけ瓦を突き落とした者があり、判明すればすぐに罰を加える、とのことだ〉(巻17 | 27)
福岡の若者もワイルドだったんだなあ。4年後に博多も負けんぞーってなもんで、やんちゃしている。
③博多の騒ぎ
寛延4年[1751]9月〈川端町中・紅屋※6徳兵衛方の婚礼で、川端町上・中両町の若者中を残らず徳兵衛方へ招いたが、意趣でもあったのか、座敷へ出したうつわ類や建具まわり、畳にいたるまでことごとく切り破り、疵付け、川流し、言語道断筆紙ママに尽くしがたい、法外な仕方は近来珍しい※7ことだった、徳兵衛は奉行所へ訴え出た。
町中も寄りあって、内々にすまそうということになったが、すでにお上は詮議にはいっていたので、右両町の年寄・組頭を不裁判にという願いはとどかず、川端町上・中の年寄2名は10月29日に入牢、両町の若者8人は同日残らず入牢、川端町上・中の組頭3人は同日に釘付けを命じられた、但し、右年寄両人は11月6日に、若者中8人は同21日に、釘付け※8の組頭3人は同10日に許された〉(巻19―74)
ね、WARNING!な内容でしょ。近ごろの荒れる成人式に通じる若者のエネルギー、かな。
にしても、要録の編さん者原田伊右衛門は、福岡・博多の騒ぎをなかよく一件づつ記録したけど、博多は年寄・組頭まで牢に入れられて罰が重すぎる、といいたげだなあ。
※1)婚礼の時の騒ぎ…嫁入り当夜のさまざまな悪態乱暴が(略)樽コロバシ・酒釣りなどと称して空樽を持ち込み、酒を貰うことなどは至極く善良な方で、石地蔵や舟を担ぎこみ、はては墓石を持ち込み、石を投げ、垣を破って、酒を強要する類のことは決して珍しくなかった。(略)近世の諸都市には、新婚者に対する水祝いがさかんにおこなわれていた。(「民俗学辞典」婿いじめの項より)
※2)石つぶて…石合戦・印地(いんじ)・飛礫(つぶて)。記録の初見は平安末期『百錬抄』嘉祥2年(1107)5月23日条「検非違使ら京中飛礫を制止す、此の春より此の事発起す」。『中右記』同日条「辻毎に飛礫し互いに殺害に及ぶ」。(横井清『中世民衆の生活文化・上』講談社より)
※3)幼年の者…若者組は14~5歳からが一般的。幼年の者とはそれ以下か。又は若者組内の若年者か。現在の山笠では中学生から若手と呼ぶのが一般的。
※4)両市中宛…御町役所から樋口祐内・原田伊右衛門(要録編さん者)宛。両市中之者、ではじまる文面から両市中宛。樋口祐内は福岡の行司と考えるが未確認。
※5)越度…律令時代は関所破りの意。転じて度を越す意に。
※6)紅屋…紅粉:博多町所々にて製す。その色もっともよし(筑前国続風土記・巻29土産考)。『石城異聞』には紅屋〇〇と数名の年行司名が書かれている。
※7)近来珍しい…「珍しい」とは伊右衛門さん、若者の掟破りを内心では容認かも。
※8)釘付け…戸〆(とじめ)。武士・僧ならば閉門・逼塞・遠慮。町人・農民は門は禁止なので、表の戸を閉ざした。