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長谷川法世のはかた宣言72・櫛田入り

長谷川法世のはかた宣言72・櫛田入り


博多祇園山笠はことし776年目だけど、いろんなドラマがあって現在の形になっている。今のように走りはじめた※1のは、貞亨4年(1687)の婿祝いのいきすぎが原因だった。53~54尺もあったという山笠が走りだしたときの人々の驚きはどんなだったろうか。

さて、走り始めて56年後の寛保3年(1743)に、櫛田境内への「出入之次第相極仕法書※2」を年行事が奉行に差し出した記録がある。境内への出入りの仕方、そして櫛田入りを待つ並び方が書かれている。(博多津要録※3)

①山笠が御社内に入り込むことが近年不行儀で、その上御社内へ入り込まずにいる。以前は大乗寺前町(旧冷泉小学校前)・土居町上(冷泉公園前)に据えていたのに、17~18年前から社家町(櫛田社前)へ山笠を突き合わせ据えている。御社内出入りのときに、先山が入口を出るとき、あと山をすぐに入れるので、山笠が入り口ですりあわせになってけが人もでる。奉行から「仕組相立候様」にと指導があり、今年は左の仕組書のとおり少しも間違いなくすんだので、年行司一同安堵した。
②山笠を大乗寺前町・土居町上の両町に、11~12間(約20m)間隔で据えること。一番山が境内に入ったあと、万行寺門前、祇園町上の方へ舁きこんだとき、二番山が大乗寺前町より櫛田社を目指して舁きこむように。あとの山も右のとおりにすること。

次は右から79年後、文政5年(1822)の、年行司から奉行への書類の「覚」※4。

①「櫛田出入之儀」は、これまで一番山から六番山※5まで社内に舁いて据え※6、「山笠歌三ツうたひ」舁き出す作法なのに、以前から一番山をのぞいては、「御作法不相守、御桟敷前不敬相働候段」恐れ入ります。こんど、左のように舁き入れ方を決めました。
②一番は桟敷前に据え、歌3つ唄って出る。二番以下は、左の但し書きのように、目印を巡らせ、「御桟敷前通古格之歌舁成りニうたひ※7出入」させてください。

但し、桟敷前と能舞台の半※8に、清道の幡を枠台に立て「柵〆四方ニ砂俵」6俵ずつ、計24俵を積み立てる。

③これまで台上がり棒捌きの者は桟敷前通りは下りていたが、これからは舁いたまま通るので下りる間合いが取れません。台に上がったまま平伏しますので許可願います。以下省略。

書類には六月と書いてあり山笠直前だ。追い書きに「清道之幡」が不許可だったとある。いまは、櫛田社境内に清道旗を立てて各山が五分毎に一周する。一番山だけが博多祝い唄を一番だけ唄うので、一番と二番の間隔は祝い歌の時間が考慮される。

清道旗は26年後の嘉永元年(1848)東町下の提唱※9で立てられ、現在に至っている。今年で山が走りはじめて330年目。清道旗が立てられて169年目だ。そして、ことしはユネスコ世界遺産登録の最初の年。もちろん、山笠史に特記すべき年となった。

※1)走りはじめた…正月、土居町の若者が竪町の新婿を水祝して両町の喧嘩になった。半年後の山笠で、先山の土居流を後山の恵比寿流が追い抜こうとして追いつ追われつになった。以後、走る山が恒例となった。
※2)仕法書…博多津要録:巻之14 | 46
※3)博多津要録…年行司原田伊右衛門編さん。28巻。寛文から宝暦年間の福岡藩とのやり取りの控え
※4)覚…「山笠記録」:『博多山笠記録』65頁
※5)一番山から六番山…七流(町組)のうち輪番で七番の流は能当番
※6)舁いて据え…原文は「舁据へ」で据えることに重心が。歌を三番唄うあいだ据えて見物人が錺を堪能する間合いを取ったのだろう。
※7)舁成りニうたひ…舁いて走りながら唄うことか?舁き手にその余裕はあるまいから、 台廻りの者たちが歌ったか。
※8)桟敷前と能舞台の半…山のあとで能も興行されるので、桟敷は能舞台の反対側にあったか?
※9)東町下の提唱…「博多祇園山笠史談」。

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