
「水車見(みずぐるまみ)せ銭取(ぜにと)り」事件。市右衛門さんはなんで追い山前日から、無許可で水車の見物料なんかとって、罰せられたんだろう。
水車の記録は『博多津要録(はかたつようろく)』に6件ある。長くなるので要点だけをご紹介しよう。
①1739.12.23※1笠文右衛門※2と、のこ屋七右衛門が連名で、那珂川の住吉村脇※3に水車設置を申請して許可された。
笠文右衛門は福岡の月行司(つきぎょうじ)※4なので、のこ屋の身元保証としての連名だろう。3年後、のこ屋だけの願い出がある。
②1742.11.30のこ屋は水車設置の費用、銀800目を拝借していたが「水掛(みずか)かり悪(あ)しく」水車を止めたため、返済を20年賦にしてほしいと願いでて「水車相止(みずぐるまあいと)め候儀故(そうろうぎゆえ)」、半分の10年賦に決定された。奉行も配慮するほど「水掛かり悪しく」が問題なんだな。のこ屋は借金を完済できたかなあ。3年ほどの水車業は、差し引きペイしたのやら。
約12年後、いよいよ主役の登場。
③1754.3鰯町上(いわしまちかみ)※5油屋※6市右衛門が、新川端町上七軒家(しちけんや)※7裏手の川に、水車設置を御郡方(おぐんかた)※8 へ申請、許可された。原文は最後に「御運上銀(おうんじょうぎん)などの儀(ぎ)は、年々間違(ねんねんまちが)いなく御郡方へ相納(あいおさ)め申(もう)し候様(そうろうよう)に仰(おお)せ付(つ)けられ候事(そうろうこと)」と、念を押している。のこ屋の失敗はしっかり記憶されているんだ。
④つづいて同年7.29市右衛門が御郡地に水車関連で申請。同所の仮橋土手砂留(かりはしどてすなど)めが、現状は土俵であるのを舟板(ふないた)で強化したいという内容で許可。
⑤そして1年後の1755.6.23ジャジャ~ン!ついに「水車見せ銭取り」事件発生。水車申請のほぼ一年半後のことだ。市右衛門さんは水車停止・禁足(きんそく)※9・御呵(おしかり)を受けた。
ここまでで、大体の事情はおわかりと思うが、つまりは「水車の稼働率」が問題らしい。稼働率が悪いので、水車見物料をとって少しでも収入アップをはかる苦肉の策だったのではないかと思われるのだ。
⑥最後の記録(1757.11.13) は、事件から2年後。すでに市さんの水車は水利が悪く止まっている。住吉橋のあたりから芝原になっていて、水が春吉側へ流れる。その芝原からこっちの360メートルあまり、水利工事を自分持ち(!)でやりたいと申請したんだ。「御慈悲の上」と訴え、承認されている。
けれどもその後、市右衛門さんも水車も津要録から姿を消す。ああ、月日は百代の過客にして、廻りし水車も今はなし。合唱(♫まわれ、み~ずぐるま~)
※1)1739.12.23…元文4年。計算の便をはかり年号は西暦にした。日付は和暦。
※2)笠文右衛門…福岡の月行事。享保14年から38年間勤めた。博多津要録編者原田伊右衛門の実兄。約20年兄弟で年行司の時期が重なる。伊右衛門は延享3年から37年間年行司だった。
※3)住吉村脇…後出の市右衛門の水車所より上流。キャナル近辺か。
※4)月行事…博多年行司と同格。1471年に年行司と改称:津要録解説(一)。
※5)鰯町上…博多中学校の北側那珂川筋。競艇場の対面。
※6)油屋…時代は下るが慶応3年(1867)改めの格式人名では総計272名の内油屋は、年行司次1人・年行司格2人・年行司格次4人の計7人。その中に代々引き継ぐ通り名・市右衛門は見当たらない。(山崎藤四郎『石城遺聞』より)。
※7)七軒家…七軒家とは、前回紹介した土居流のスイッチバックの場所。三奈木黒田家「福博古図」の書きこみ「水車今ハナシ」は、現水車橋(名前は未記入)のたもと下流側。横に「七軒屋(ママ)」と書き込みがある。
※8)御郡方…博多・住吉・春吉は那珂郡。
※9)禁足…前回禁足を武家の「閉門」に対応する罰則のように書いたが、町人には入り口の戸を開かないようにする「釘付け」の罰があった。スミマセン