かつてプロ野球界では年俸1億円が「大台」とされました。それが今季、1千人を超えるプロ野球選手のうち、「億円台プレーヤー」は外国人選手を含めると約140人だとか。いまや大台はどこに?って感じですが、ここでは1億円が大台だった頃のお話を。
日本球界初の1億円プレーヤーが誕生したのは1986年オフ。2年連続三冠王の落合博満内野手が、ロッテから中日への移籍に伴い1億3千万円で契約しました。その3日後には西武の東尾修投手が1億円に。こちらは投手第1号です。
1億円の大台に達し、笑顔で会見に臨む東尾氏
=1986年12月
落合氏に先を越された東尾氏は、闘志をたぎらせながら球団との契約更改交渉に臨みました。この年もリーグ優勝&日本一。チームの成果が落合氏とは格段の差があります。数年前から西武黄金期を支えてきたエースとして、1億円は譲れない額だったのです。
ところが、提示額は9500万円。どんなに粘っても望みがかなう気配はありません。そこで東尾氏は訴えました。「自分で500万円を払う。それを乗っけて1億円にしてくれ」。その心意気を買われて自腹を切ることなく到達しました。
と、いうのはプロ野球ファンならご存じの、半ば伝説化したエピソード。実は私が担当記者をしていた2000年頃の西武でも、1億円をめぐるユニークな攻防がありました。
今年は大台到達と踏んで交渉に臨んだ某選手。しかし、球団の提示額は9800万円でした。他球団にはほぼ同等の成績で1億円に達した選手もいます。それを引き合いに上積みを訴えても、さらには日を置いて再交渉しても、球団は首を縦には振りません。しぶしぶ諦める代わりに、こんな条件を要求しました。
「これでサインはします。でも、記者会見では1億円に達したと言わせてください」
そんな舞台裏を知ったのは後日のこと。どうりで念願の大台到達だと言いながらニコリともせず質問に答えていたよな、と納得がいったものです。
「お金うんぬんより、それがその選手の価値を表すものならば、僕はいくらでももらいたいです」。これは同時期にまだ20歳前後だった西武の怪物クンの弁。野球に限らず、プロ選手の年俸額には、プライドもこもっているのです。
「額」は「箔」。「額」は「格」。箔や格は勝負のメンタルにも影響します。となれば来季、さらにはその先のプレーのためにも熱い〝銭闘〟を期待したいところ。もちろん、代理人任せにせずにね。
文 富永博嗣
西日本新聞社で30数年間、スポーツ報道に携わる。ホークスなどプロ野球球団のほか様々な競技を取材。昨年3月に定年を迎え、現在は脳活新聞編集長。