三久
大分県日田市亀山町1の1
午前11時~午後7時、火曜定休
ラーメン650円、やきそば830円
久留米の高校に通っていた頃、西鉄久留米駅の近くにあった焼きそば屋によく足を伸ばした。店は大分・日田発祥の「想夫恋」。当時は意識していなかったが、今では日田を代表するご当地の味だ。よくよく考えれば、久留米と日田は鉄道、道路、川でつながり、昔から交流が盛んだった。当然ながら麺料理も行き来した。豚骨ラーメンは久留米から日田へ。逆に想夫恋のような焼きそばは、日田から久留米に広がっていった。
本場の日田で焼きそばを食べようと思えば、ラーメン屋に行くのがいい。多くの店が鉄板を備え付け、ラーメンと焼きそばを提供しているからだ。「三久」もその一つ。店主の田中修さん(55)に早速、つくってもらった。日田の焼きそばの特徴は文字通り、そばを「焼く」ところ。鉄板で焦げ目をつけているので、麺の所々がカリッとしていて香ばしい。豚肉のうまみとシャキシャキのもやしに甘めのソースが絡む。途中で生卵をつぶし、麺と絡めながら完食した。
三久のオープンは昭和40年、田中さんの父、欣次さんが大分県臼杵市で「来々軒臼杵店」として創業した。当初はラーメンのみ。「おやじが日田の来々軒で働いていて独立した。だからその屋号なんですよ」。田中さんの言う「来々軒」とは、現在も続く日田で1番の老舗で、九州豚骨の源流に連なる歴史を持っている。
説明すると、白濁豚骨ラーメンの発祥は、西鉄久留米駅前にあった屋台「三九」だ。ここで創業者の杉野勝見さんとともに、杉野さんの叔父である田中始さんが働いていた。昭和26年になると、杉野さんは三九を知人に譲り、北九州市で「来々軒」を開業。3年遅れて、始さんが日田で来々軒をオープンさせた。欣次さんは、始さんと親戚関係であり、来々軒で働いていたというわけだ。
独立時、欣次さんは「ラーメン店が少なかった」との理由で、臼杵の地を選んだ。商売は順調だったが、店の裏の崖から落石が発生して、危険を感じていたため、昭和45年に現在の場所に移転。屋号を「三久」として再スタートを切った。
焼きそばに鉄板で焼き色を付けていく
田中修さん
5年ぶりに日田に戻ると、状況が変わっていた。市内のラーメン屋が軒並み、焼きそばを提供し始めていたのだ。広めたのは昭和32年創業の「想夫恋」だ。これは日田来々軒の現店主に聞いた話だが、創業者の始さんは「想夫恋」創業者の角安親さんと狩猟仲間だった。最初は始さんが角さんにラーメンを伝授。その後、想夫恋が焼きそばで有名になると「あんた方もしない(すれば)」と麺の焼き方を教わったそうだ。次第に市内のほかの店も追随する。三久は日田移転から1年ほどして焼きそばの提供を始めた。
それでも、田中さんが子どもの頃は圧倒的にラーメンが人気だった。ご当地グルメとして「日田やきそば」の知名度が上がるにつれ、ラーメンと焼きそばの立場は逆転していく。実際、取材中に入る注文は焼きそばが圧倒的に多かった。ただ、付け加えると、あっさりでありつつ、豚骨のだしが、しっかりと感じられるラーメンもとてもおいしい。久留米から来た味と、日田で生まれた味。いつもどちらを食べるか迷ったあげく、両方注文してしまう。
ちなみに三久の屋号の由来は、三隈川と久大線の頭文字からとったそうだ。やはり久留米と日田との関係は深いのである。
文・写真小川祥平
1977年生まれ。ラーメン記者、編集者。
著書に「ラーメン記者、九州をすする!」。「CROSS FM URBAN DUSK」内で月1回ラーメンと音楽を語っている。ツイッターは@figment2K